名もなき星の民から地球人へのメッセージⅤ(20~23)

20

 

 霊的、という言葉は何を意味するのだろう。

 

それは

 

「人間としての良き資質を全方位的に活かして生きている」

 

ということだ。

 

分かりやすく言うと、

感情が深く、

知性が高く、

肉体と精神が健康で、

能力的に万能の人になるということだ。

 

(実際万能かどうかではなく、

「やれば何でもできる」と思える自己認識)

 

実は人は潜在的には誰もがそうなれる。

 

しかし努力しなければなれない。

 

努力しなければならないようなものに

ならなければならないのだろうか?

 

とあなたは思うかもしれない。

 

答えは

「ならなければならない」

 

むしろ人間は努力していなさすぎる。

 

鳥は努力をしている。

植物は努力をしている。

 

それは生きるための努力、

自分に生存を全うための毎日の努力だ。

それを他人任せにせず、

自前の精神と肉体と能力でまかなう。

 

人間はそれをしているだろうか?

 

していない。

 

人間がしている努力の大半は、

他人に気に入られるための努力、

社会の間違った教えに無理やり自分を押し込めるための努力、

そして絶対必要な訳ではないものを手に入れるための努力だ。

 

人間は、少なくとも我々のような豊かな国の住人は、

根源的な意味で、生きるための努力ということをしていない。

 

それが悪いのではない。

必要ないからしていないだけだ。

 

だが必要ないからしていない内に、

本来の努力の内容も目的も、

それをすべきであることも忘れてしまった。

 

例えばお金のために必死に「努力」する。

 

この言葉の意味を考えてみると、

お金がなくなっても実はその時点で死ぬ訳ではない。

 

妄想の不安が現実の問題よりも

はるかに大きなサイズになっている典型だ。

 

なぜならお金がないなら

実家に帰ることもできるし

人に頭を下げて借りることも恵んでもらうこともできる。

(実際、そうするしかないだろう。恥を忍んででも)

 

つまり、お金のために必死で、と言っても

実際には、お金がなければ無いでどうにかする。

 

もっと突っ込んで言えば、

「お金が無いなら無いでどうにかする、という

したたかな自分の側面がそこでにわかに登場する」

 

ただ、そこまで追い込まれていない今は

プライドや固定観念のために

親を頼ったり、人に頭を下げたり出来ない、

と決め込んでいるだけだ。

 

こういうものは、他の生物たちがしている

「生きるための、自分でしかしようのない努力」

とは別のものだということが、分かるだろう。

 

この観点で見直してみると、

本当の意味で生きることに直結した努力を

豊かな国の人間はまずしていない。

 

でも努力しているふうに「錯覚」はしている。

 

お客の期待に答える努力、

必死で人々に受け入れてもらおうとする努力、

社会が価値を置く基準を満たそうとする努力・・・

 

しかしこれらの努力が錯覚である証拠に、

その人が「こんな努力は要らない」と気付くやいなや、

そんな努力は全然要らない人生に自動的に移行する。

 

そのような人生では、

あなたは自分らしく自分に出来ることを

自然体でやっているだけで

人から受け入れられ、求められ、

お金を稼ぐことが出来る。

 

その時点であなたにははっきり分かる。

「あれは努力ではなかった」と。

 

我慢、苦労、自分殺しを努力と誤解していただけだ。

 

努力は、ポジティブな営みだ。

生きることとイコールだからだ。

 

(再び、鳥や植物を思ってほしい。)

  

努力せずに生きるということは

僕の好きな言葉で言うと

「ヒリヒリした感覚」で生きていない

ということだ。

 

むしろ

相手に調子を合わせ、

会社に調子を合わせ、

客に調子を合わせ、

または収入のある夫に調子を合わせ、

親に調子を合わせ、

「自分らしくあるという努力をしないこと」によって生きている、

と言うのが正しい。

 

今の多くの人たちの悩みや迷いの原因は実は

「ヒリヒリと生きていない」ことによる。

 

魂で全力で生きているという実感がないのだ。

 

それならばいっそ貧しい国にでも行ってボランティアでもするか?

 

そういう話ではない。

 

戻ってきたらまた同じだ。

 

ヒリヒリと生きるためには

緊張感と新鮮さが必要だ。

 

あなたは緊張感を持って、

常に新鮮なことをしているだろうか。

 

その緊張感は良い緊張感だろうか。

そしてその新鮮さは本当の意味での新鮮さだろうか。

 

(新鮮さと誤解している惰性があることに注意しよう。)

 

ある肉体運動をする。

すると自分の中によく知らない筋肉や感覚があって動いている。

それは自分の一部なのに全然使って来ず、

出番が来て喜んでいる。

 

ある知的活動をする。

すると自分の中によく知らない脳の分野があって火花を散らす。

そこもまたずっと使って来なかった。

出番が来て喜んでいる。

 

我々の心や体や頭脳の中には、

神(または神的存在)によって高度な能力を与えられた、

でもずっと出番の来ないでいる領域や存在が満ちている。

 

そのすべての能力は自分の所有物ではなく、

宇宙という広大無辺のエネルギーに属している。

 

だから自分の内部を開拓し、

「私」の中に統合していくことで

あなたは宇宙や摂理、世界、神、他人、

そして自分自身を理解することが出来る。

 

自分の内部の開拓した量が少ない人は

人生に対しても自分に対しても無知だ。

 

一方、自分の内部を開拓すればするほど

人は愛に気付ける。

幸せを実現する。

 

人間の潜在的な良き資質は、

このようにして開かれていく。

緊張感と新鮮さによって。

 

そのために何が出来るのか、何をすべきなのか、

それをお伝えしたい。

 

21.

 

努力の意味は、

「やりたくもないことを受け入れる」

ということではない。

 

自分の潜在能力を解き明かすための冒険・・・

と言えるかもしれない。

 

僕は「私には出来ない」という人を

かなり見る気がする。

 

だいたいそういうことを言う人は

試してみてもいない。

試しても一度や二度で、

続けていない。

 

「やったことがない」

と言えば事実なのに

「出来ない」

「出来るわけがない」

と思いこむ。

 

その理由は、

自分を大したことのない人間だと思い込んでいるからだ。

 

(多分子供の頃の挫折や拒絶の体験に根差している・・・

しかしだからと言って、それを言い訳にして

成長を止めてはいけない。)

 

別にそれは例えば

芸術の創作とか

外国語とか

スポーツとか、

特定の能力を要するものに限らない。

 

なぜなら、このような考え方をする人たちは

 

「私は鈍感だから他人の気持ちなんて分からない」

「その時々の正しい在り方なんて自分では分からない」

 

と言い張り、

そういうことが分かる人たちを

超能力者や何であれ「凄い人」として

自分から隔ててしまう。

 

そして、自分は凄くない人だから

そのあたりのことは努力しなくて良い、と考える。

 

僕は経験からこう考える。

分からない人はそもそも分かろうとしていない。

 

何か、面倒くさいらしい。

 

前回の記事で書いた「上手く言えない」も同様だ。

 

そもそも伝えようとする気がない。

 

(多分その理由も、幼少期の挫折や拒絶の体験に拠る。

でもそれを言い訳にして自分を甘やかさないようにしよう。)

 

だから自己完結的な言葉で話したり、

小さな声で話したりする。

 

相手を喜ばせたり、楽しませたり、

相手にとって理解しやすいように話そうとすることを考えず、

自分の脳内の呟きをただ宛てもなく発声する。

 

それは「いま自分がこの人と一緒にいる」

「今この人とだけ出来ることがある」

ということを大切にしようという発想がない点で

非常に孤独だ。

 

相手を喜ばせる、楽しませる、とは

お世辞を言ったり、ニコニコしたりすることではない。

 

相手と自分が持ち得る有意義な時間を持とうとする、

ということだ。

 

それは本当の意味で、相手を大切にすることだ。

 

あなたは相手を喜ばせたり輝かせたりする意識で

人と付き合っている自覚があるだろうか。 

 

特殊な技能では全然ないコミュニケーションでも

このようなことがすでに起きている。

 

実際、いざ相手のために良い時間を持とうと思うと、

あなたはかなり神経を使うことに気付くだろう。

 

念のため繰り返すけれど、

いわゆる「相手に良い思いをさせるための」

リップサービスの類の話をしているのではない。

 

「こんにちは」

「こんにちは」

「元気ですか?」

「元気ですよ。あなたは?」

「元気です。最近は何をしているの?」

 

というような、まるで日本語の例文のようだが

こういう会話を出来る人は凄く少ない。

 

「こんにちは」

「こんにちは」

「元気ですか?」

「はい。まあなんとか」

 

だいたいここで終わる。

 

なぜだか分かるだろうか。

 

相手を気遣う心の訓練を日頃していないからだ。

質問されて呟くところで会話の想定が終わっている。

 

これではとても他人と、世界と、地球と、

見えない存在たちとは繋がれない。

 

貰うばかりだからだ。

(この場合は質問や気遣いを)

 

自分は受け取る側、と決め込んでしまうと

このようなことが起きる。

 

逆に言えば、この程度の簡単な所から

人との関わり方を見直していくことができる。

 

もしあなたが、他人と会話を弾ませるのが下手だと思うなら、

多分あなたはこういう気遣いをしていない。

 

逆にそこで気遣いをしない代わりに

「ああ思うんじゃないだろうか」とか

「こう思ったんじゃないだろうか」とか

無用な気遣いをしているかもしれない。

 

いま何の話をしているのかと言うと、

光を投げかけられたら光を映し返す存在になろう、

ということだ。

さもなければ、与えられた光を吸い込む黒い存在にしかならない。

 

冒頭で僕は

「人間としての良き資質を全方位的に活かして生きる」

ということを霊的だと語った。

 

他人を思いやることや、

光を照り返すこと、

より良い時間を作り出そうとすること、

それらはすべて人間の潜在的な良き資質だ。

 

それを育てていこう。

 

それに続いて僕はこうも書いた。

 

「分かりやすく言うと、

感情が深く、

知性が高く、

肉体と精神が健康で、

能力的に万能の人になるということだ。」

 

相手と繋がろうという意識の力を持つようになると

感情が深くなり、言語能力(知性)が高まる。

 

人間は孤立化するとあらゆる能力や資質が

退化してしまう存在だ。

 

逆に言えば、

本当の意味で、いま目の前にいる人と繋がる努力が

あなたの中のあらゆる能力や資質を進化させる。

 

僕は

「ヒリヒリとした感覚を持って生きる」

とも書いた。

 

今日会うその人は、たとえ先月も会っていたとしても

今日という日に現れた新鮮な人だ。

 

おなじみの相手、

おなじみの場面、

と決め込むのではなく、

新鮮な目で相手を見て、世界を見る。

 

世界を惰性にするのも新鮮にするのも

あなたの意識次第だ。

 

ちなみに僕はすべての人と新鮮な意識で会っている。

相手の様子を伺い、言葉をかけ、

相手の必要としていることをする。

今日がその人と会う最後の日だとしても悔いのないように接する。

 

他人でも、妻でも、両親でも、お店の人でもだ。

 

やってみると、それがどんなにか

「ヒリヒリする」ことか分かるだろう。

 

別に痛い訳ではない。

 

ただ、大切で壊れやすいものを持つ緊張感を

自覚的に持とうとしているだけだ。

なぜなら、その方が大切に出来る。

 

食器でも、体でも、お金でも、

音楽でも、時間でも、言葉でも。

 

この緊張感だけが、あなたから

本来の感受性や意欲や優しさやたくましさを引き出す。

 

僕が伝えたい「人との関わり方」は

巷のコミュニケーション術ではない。

 

自分を輝かせ、人生を大切にするための方法を

お教えしている。

 

22.

 

コミュニケーションについて見直すべきことを書いた。 

次に「技能的なこと」について書こうと思う。

 

実に人間は色々なことが出来る。

 

色々なことが出来る人を見ると、人は

 

「何でも出来て凄い」と言ったり

「どれも中途半端で酷い」と言ったりするが、

 

全然本質的でない。

 

単純に、人間は色々なことを実行できるという事実があるだけだ。

 

絵を描けない人というのは、一人もいない。

なぜなら鉛筆を走らせればそれは絵だし、

色を適当に塗ればそれも絵だ。

 

ただ人は非常にエゴが強い。

 

それを絵として認識しようとしない。

 

事実として絵なのに、絵ではないと言い張る。

 

僕が言いたいのは、「絵を描くべきだ」では

勿論ない。

 

絵を描けるのに、「描けない」と言う。

それは絵なのに、「絵ではない」と言う。

 

これは現実を自分勝手に捻じ曲げるエゴの心の為せるわざだ。

 

エゴとは・・・

わがままとか、利己的とか、そういう意味ではない。

 

自分の都合で事実を捻じ曲げる心をエゴと言う。

 

あなたもあなたの中にエゴを探してみると良い。

 

そのエゴはいつもこう言っている。

 

「私は出来ない」

「私には分かる訳が無い」

 

(=「だから私はやらなくて良い」

これが本命の発言だ。)

 

僕が、そういう考えは駄目だと言っている理由は、

他でもない、それが「エゴの声」だからだ。

 

エゴの声に従ってはいけない。

エゴはただあなたを不幸にだけ導く。

 

むしろ「出来ない」とそこまで言い張りたいことこそ

やってみたら良い。

 

こういうふうにテストする。

 

「歌ってみたら?」

「いやいやいや!歌えないです」

 

「テニスをしてみたら?」

「いや、テニスは別にしたくないです」

 

歌の方は、エゴの声だ。

本当は歌いたい。

 

テニスの方は本心の声だ。

本当に興味が無い。

 

本心の声だから

「したくない」を「できない」にすり替えない。

 

エゴはいつもすり替える。

自分のプライドを守りたい一心で、だ。

 

無用のプライドを多く抱える人は

エゴに取り込まれている。

 

エゴは人間に何の益も為さない。

このブログを読むようなあなたには

エゴから進んで離れる努力をしてほしいと願っている。

 

僕の話をすると・・・

チェロとヴァイオリンとギターを弾き、

歌い、作曲し、作詞し、

絵を描き、書をし、小説を書き、

外国の友達とは英語で話す。

日曜大工をし、料理をし、パンを焼く。

勿論、仕事ではヒーリングの他に

カウンセリングもマッサージもレッスンもする。 

 

すると

「何でもできて凄い」

と大概の人は言う。

 

でも僕が思うのは

「(僕が凄いのではなくて)

こんなに色々出来るように設計された人間が凄い」

ということだ。

 

僕はその素晴らしさを楽しみ愛でるために

これらのことをやっている、とも言える。

 

ちなみに上記の中で、

「出来る」と事前に分かっていて始めたことは一つもない。

 

ただ、やった結果、続けた結果、

それなりに出来るようになっただけだ。

 

まだまだ深めていきたいし、

新たに始めたいこともきっとある。 

 

このように生きていると、

前回の記事でも書いたが

「人間は凄いなあ、美しいなあ」

「よくこんなに素晴らしい生き物を作ったなあ」

と自然と思う。

 

すると「つまらないことはやめよう」と自然と思う。

 

僕は人の話を聞くことが仕事柄多いが、

実にくだらないことで多くの人が悩んだり

怖気づいたりしているのに気付く。

 

そんなものは、自分という存在の素晴らしさに気付いたら

風の前の塵のように吹き飛んでしまうというのに、

そういう悩み事の数々と大切に抱えている

(つもりはないだろうが、そう見えるし、

あなたも絶対にいつか自分をそう振り返る)。

 

あなたは何を苦手としているだろうか。

苦手としながら、惹かれているだろうか。

 

歌うことが怖い。

それなら歌えば良い。

 

歌ったら、今度は人に聴かせるのが怖いだろうか。

それなら人に聴かせれば良い。

 

単純なこの方法だけで、

あなたは自己実現していくことが出来る。

 

23

 

自分という存在、

人間という宇宙の玉手箱を

いかにして満遍なく開封していくことが出来るだろう。

 

つい先程は「怖いことほどやるべきだ」と言ったが、

それとは別口に、

「何であろうとやるべきだ」という事柄について述べる。

 

人間のいくつかの重要な内部領域として、

〈思考〉、〈感情〉、〈感覚〉、〈直観〉、〈肉体〉がある。

 

このすべてが均等に発達している状態は

なかなか得難い。

 

しかし出来るだけ均等に発達させた方が良い。

 

考えてみてほしい。

 

上昇は得意だが、

旋回が苦手な鳥を。

 

目は良いが

獲物の捕獲が苦手な鳥を。

 

偏りを埋めていかなければならないことは自明だ。

 

一つ一つ説明しよう。

 

〈思考〉は言語的、論理的、理論的、

定型的、詳細な事柄を扱う。

 

ここは外国語、各種理論、数学の学習、読書、

文法・語法・語彙選択の正しい文章作成、

将棋などのゲーム、

「再現」を目的とする創作

(書道、デッサン、レシピの明確な料理や陶芸)

などで培うことが出来る。

 

特に霊的志向の強い人にとって、

思考は軽視されがちだ。

しかし実際には、思考の発達の遅れが

霊的成長を遅らせる元凶になっていることは非常に多い。

 

思考は不要、とスピリチュアルの分野では多く語られるが、

それは無用の思考、雑念の集合、

地に足のつかない空想や被害妄想の弄びのことであって、

本当に霊的に生きるためには

客観的に正しく現実を見ることを担当する思考を鍛えておかないと、

あなたはいつでも容易に道を踏み外すことになる。

 

(僕は思考の発達遅れのせいでコースアウトした人を

かなり見てきた。)

 

次に〈感情〉だが、

やはりここも誤解の言説があり、

「感情に振り回されない方が良い」

ということはよく言われる。

 

しかしその感情は低次元の感情であって、

そういう感情は、エゴが捻じ曲げた事実や現実に由来するものだ。

 

しなくて良い我慢をする、

素直にやれば良いことをやらない、

自分にも非のあることを認めない・・・

 

これらの間違った認識からは間違った感情しか生まれない。

 

こういうものに振り回されてはいけないが、

その上で生起する感情はいわば「天然由来」であって、

このような感情にはむしろ進んで同化しなければいけない。

 

なぜならそのような感情を拒否・抑圧することは

自然に対する逆行だからだ。

 

あなたは素直に喜べるだろうか。

怒れるだろうか。

笑えるだろうか。

 

このための訓練は、

前提として低次元の感情から脱却すること、

日頃から感情にまつわる言葉を自由に使えるようにしておくこと、

(特にネガティブな見解にまつわる言葉の方)

天然の感情を認識したら機を逸することなく表現・伝達することだ。

 

〈感覚〉は非言語的なすべての情報に関するものだ。

 

なんとなく嫌な場所だ、

座り心地の良い椅子だ、

幸せそうな声の人だ、

 

というようなことだ。

 

これを鍛えるためには常に新鮮に現在と関わることだ。

 

今日の味覚はどうなのか。

今日の股間節の動きはどうなのか。

今日の脳内の静けさは、呼吸の深さはどうなのか。 

 

そもそも、あなたの体調は毎日違う。

そのことに気付ける人もまた少ない。

 

感覚を養うには瞑想が必要だ。

瞑想して静かな状態を覚え、

そこに入ってきた非言語的情報・刺激を

自分の感性との相性で認識する。

 

あなたは何を美味しいと感じ、

何を詰まらないと思うのか。

 

そのためには自分の好き嫌いや印象を

日頃からはっきりと言語化しなくてはいけない。

 

ぼんやりさせたままにしておくと

感覚は際限なく鈍化する。

 

言語化は思考が担当する。

 

このように思考を発達させることで

感覚もまた発達していくという影響関係がある。

 

だからこそ述べたように

満遍なく自己を育てることが必要なのだ。

 

「思考なんて要らない、直観さえあれば」

などと考えないようにしよう。

それは自分の可能性を進んで捨てているようなものだ。

 

〈直観〉は思考と感情と感覚が合流して、

言語的な洞察を一瞬にして作り出す火花のようなものだ。

 

思考は脈絡に添って慎重に考える。

直観は突拍子もなく結論を出す。

 

ゆっくり論理を積み上げる思考が話を終えない内に

感覚の「好き」「嫌い」

感情の「嬉しい」「腹が立つ」

などが合流して、直観となる。

 

直観は言語的であるために、

人に行動力や確かさの感覚を与える。

 

(「そうだ、何々をしよう!」と言語で思いつくだろう。)

 

スピリチュアルや啓発の分野では

直観は大いに信奉されている。

 

が、それは間違いだ。

 

直観は、思考、感情、感覚と完全に同列のものであって、

「そう直観したからそれが答え」

などという保証は全然ない。

 

むしろ、関わり方が正しくないと、

かなりの高確率で直観は間違える。

 

では直観など信じてはいけないのか?

 

そうではない。

 

思考、感情、感覚と同等に重要視すべきだ。

 

例えば

思考のみを優先して、

「科学がこう説明した。だからそれ以外はあり得ない」

と断定するのは正しいだろうか。

 

感情のみを優先して

「私が傷ついたんだから、あの人は悪い人だ!」

と極論するのは正しいだろうか。

 

感覚のみを優先して

「気持ち良いんだからいつまでもこれでいいんだ」

と自分を甘やかすのは正しいだろうか。

  

直観に過大な価値を置かず、

他と同様に大切にしていこう。

 

直観を養う訓練としては、

「2秒で決める」というのが

一番有効ではないかと思う。

 

最初はレストランのメニューくらいのもので良いので、

2秒で決める。

そのように訓練していくと、

あらゆることに関して次第に直観を利用することが出来るようになる。

 

直観はあなたが選択して自覚的に利用するものであって

「・・・という直観が来たからそうした」

という受動的なものであってはならない。

 

あなたは直観の召使いではないはずだ。

 

最後に〈肉体〉だが、

以上の4つすなわち思考、感情、感覚、直観は

健全な肉体の上でしか機能しない。

 

機能しないどころか致命的に誤作動する。

 

あなたが不健康なら、まずは

他の何を置いても肉体の健全性を先に確保すべきだ。

 

スピリチュアルの志向性が高い人は

思考同様に肉体をかなり軽視する傾向があるので

注意してほしいと思う。

 

体の健全性に関しては、

左右対称性、

柔軟性、

運動能力などでチェックし、

言うまでもないことだが

不健全な食べ物を取らないこと、

不健全な衣服を着ないこと、

不健全な環境に身を置かないこと、

休息すること、

リラックスすること、

瞑想することが不可欠だ。

 

あなたの肉体と精神は神からの贈り物であり、

宇宙の宝だ。

 

しかしいまだ完全には開かれざる宝だ。

 

あなたを大切にし、あなたを活かすことは

そのまま宇宙と神に、良いエネルギーを還すことだ。

 

肉体と精神を充分活性化させれば愛に目覚める。

地球帰属意識も勿論そこに付随して芽生えるだろう。