名もなき星の民から地球人へのメッセージⅥ(24~27)

24

 

今回は、思考、感情、感覚、直観について

更に立ち入って話をしてみたいと思う。

 

これら4つの機能は我々にとって

世界と関わる窓口であり、

また内部で起きるプロセスの実体だということを

前回の記事では述べた。

 

例えばある人の話を聞く。

 

語られていることの内容を理解しようとするのが〈思考〉、

聞きながらドキっとしたり、ムっとしたりするのが〈感情〉、

良い声だ、または嫌な喋り方だと感じるのが〈感覚〉、

これは私にとってきっと重要だ、と知るのが〈直観〉。

 

または例えば食事をする。

 

食材や調理法を知ろうとするのが〈思考〉、

食卓を楽しい又はつまらないと感じるのが〈感情〉、

料理の味や体との相性を感じようとするのが〈感覚〉、

食事できることの有難さを感じるのが〈直観〉。

 

分かるだろうか。

 

このバランスが悪いとどうなるだろう。

 

例えば〈思考〉偏重だと

栄養素や調理法、オーガニックであるかどうか、など

そういう情報が最も大切になる。

食卓の〈感情〉的風景は重要ではない。

体の〈感覚〉に合わなくても「良い」と信じ込んで

「良いと言われているもの」を食べる。

食事できることの有難さを〈直観〉することはない。

 

〈感情〉偏重だと、

食べている時間がとにかく楽しければ良いので

それが毒物だろうがフェイクだろうが関係ない。

楽しいからという理由でテレビを観ながらでも食べるし、

会話に夢中になって、味わいも噛みもせずに飲み込む。

 

〈感覚〉偏重だと、

味覚的に美味しければ、作られた過程が悪くても構わない。

感覚が満足するまで食べ、

食べすぎるとどうなるかという思考や

これは強欲なのではないかという直観が働かない。

 

〈直観〉偏重だと

食事できることの恩寵を過大に尊重し

ある種の独自の宗教的体験を作り出してしまう。

勿論、食事できることはとても有難いことなのだが、

暴走した直観はしばしば意見の一致しない他人を見下したり

批判したりすることを促す。

畏敬の念や高邁な思想も勿論大切だが

〈思考〉による栄養的観点や

他愛のない〈感情〉の喜びもまた大切であることを忘れ、軽視する。

 

では思考、感情、感覚、直観のすべてのバランスが良いと

どうなるだろう。

 

 健康的なものを、

心地よい感情風景の中で、

よく味わい、

またとない時間であることを感じる。

 

内訳はこうだ。

 

健康的なものを(←思考による正しい選択)

心地よい感情風景の中で(←感情による正しい参加精神)

よく味わい(←感覚による正しい体験)

またとない時間であることを感じる(←直観による正しい洞察)。

 

食事は毎日のことであるのに、

これはほとんどの人にとって離れ業だ。

 

それくらい、一つのことをする時に

思考、感情、感覚、直観のすべてを使用することは難しい。

 

自分はどの程度の配分か、あなたも考えてみてほしい。

 

25

  

我々が人生を生きるに当たって、

自分は思考、感情、感覚、直観の

どれを偏重し、どれを退化させているかを

考えてみることが大切だ。

 

その上で、この4つを出来るだけ均等に育てていくことを考える。

 

僕はここでケースごとに、

アドバイスを試みてみたいと思う。

 

〈思考〉の発達が遅れている場合。

 

症状は

・読み違え、聞き違えが多い

・自分の言葉が相手に通じない、誤解される

・意味が分からないと言われる、

・言葉が上手く出てこない、会話が苦手

・客観性がないと言われることが多い

 

前回記事でも述べたが、思考を発達させるには

思考が担当する活動を数多くすることだ。

 

重要なことは、どんな活動でも

思考、感情、感覚、直観、

いずれを使っても出来るということだ。

 

例えば

 

語学 × 思考なら、文法を、

音楽 × 思考なら、音楽理論を、

絵画 × 思考なら、忠実な模写を

体操 × 思考なら、肉体の理屈を、

料理 × 思考なら、レシピの文化背景や調理法を

 

学ぶことだ。

 

ここで注意してもらいたいのは

何のためにそれをしているのかということ。

 

例えば文法を学ばなくても

〈感覚〉の経験を蓄積していけばいずれ

外国語を話せるようにはなるし、

音楽理論を知らずとも良い演奏は出来る。

 

しかし僕はカルチャースクールのような話をしているのではなく、

霊的という在り方の実現について語っている。

 

だから思考を育てたいのであれば

思考の経路によって何事も関わらなければいけない。

 

思考に関する苦手意識を克服し、

 

「自分は賢くなれる」

「理解しようとすれば何でも理解できる」

「伝えようとすれば何でも伝えられる」

 

という体験を自分自身に与えていこう。

 

次に

〈感情〉の発達が遅れている場合。

 

症状は

・いつも我慢する役回り

・わがままな人が近くにいる

・感情を表現できない

・言葉を飲み込んでしまうことが多い

 

感情が退化している理由は

感情を自由にすると不利益を被るという

数多く経験を重ねたからだ。

 

しかし皮肉にも、感情を不自由にすれば

更なる不利益が待っている。

 

感情を発達させるためには何が出来るだろう。

 

受動的でいるだけでは育たない。

つまりどんなに泣ける映画を観ても

あなたの感情が発達することはない。

 

感情の発達のさせ方は実はかなり難しい。

 

なぜなら

「解放すべき天然の感情」と

「無視すべき誤りの感情」の区別が

ほとんどの人には付かないからだ。

 

例えば極端な話、

肉体の状態がすこぶる悪く、

そのせいで終始いらいらしている人のいらいらは

解放すべきものだろうか?

 

この人が自制して健全な生活を送れば即座に霧消する否定的感情を

他人にぶつけることが、許されるものだろうか。

 

思考は一人で練習できる領域だが、

感情は他人あっての領域だから、とても難しい。

 

よくある質問や相談で

「あの人(や出来事)を嫌だと思うこの感情に従って良いですか」

というものがある。

「あの人(や出来事)を嫌だと思う気持ちをどうしても払拭できない」

という告白もある。

 

僕の経験上、

この種の考えを持つ人は思い込みが強く、

そのために曲解または拡大した現実の解釈に苦しんでいる。

 

簡単に言うと、

「あなたがもっと正気になれば、それは全然苦しみではないはずだ」

と僕は常に感じる。

 

感情に関してはこのようなことが実態だから、

練習としても、特定の人に向ける感情の吐き出しなどは

恐らくすべきではないのだろう。

更なる悲しみを作り出すだけだ。

 

それよりも、自分一人で出来る感情発達の方法を考えてみた。

 

それは「歌う」ことだ。

 

歌うことで、錆びついていた感情という歯車が

次第に回り出す。

 

技術的にではなく、体感的に上手く歌えない内は

まだ感情は固まっている。

ゆるゆると、または体を響かせるように歌えるようになったら

感情はゆるやかになってきている。

 

そう考えてやってみると良いだろう。

 

歌う時、喉元で歌うのではなく、

体を響かせるように、誰かに聴かせるように歌うと良い。

 

実際に、人に聴いてもらうと良いだろう。

 

次に

〈感覚〉の発達が遅れている場合。

 

症状は

・体をぶつけることが多い

・忘れ物や不手際が多い

・物をよく落とす

・2つのことを同時に出来ない

・不器用

 

感覚は皮膚感覚や生理感覚、身体感覚といったものに分類される。

 

体を緊張させたり冷やしたりする服を着たり

ものを食べたりして何も気付かない人は、

感覚が鈍いと言える。

 

また感覚が鈍いので、

対象との距離や

取り扱いの塩梅などを

感じ取ることが出来ない。

 

感覚は他と同様、使用すれば発達していき、

それは他に比べたらはるかに容易だと思う。

 

 例えば

裸足で土の上に、草の上に立つ。

触るとくすぐったい場所をくすぐったくなくなるまで触る。

瞑想し、体の緊張を緩める。

 

こういうことで発達する、

というか基礎レベルまですぐに戻る。

 

更に発達させるためには

現在の感覚に意識を集中することだ。

 

例えば

食事している時、目を閉じ、会話をやめ、テレビや音楽を消し、

ゆっくりと口の中のものを味わう。

その味わいについてエッセイを書くくらいのつもりで味わう。

または歩いている時、足の裏や尻の動きを感じる。

その動きについてレポートを書くくらいのつもりで味わう。

 

いや、むしろ実際レポートを書くことだ。  

 

あとはデリケートな動きを要することをすると良い。

陶芸、楽器、書道、など。

 

スポーツなどの動きが大振りなものは勧めない。

 

最後に

〈直観〉の発達が遅れている場合。

 

症状は

・何事も決定するのが遅い

・決定してから撤回、変更する

・過ぎたことをうじうじ悩む

・勇気が無い

・ネガティブな状況を予想をすることが多い

 

直観は感情と並んで扱いが難しい。

 

感情を何でもかんでも認めてはいけないように、

直観だからと言って無暗に有難がってはいけない。

 

直観は正解を示している訳ではない。

 

「正解でなくても構わない」

という発想が、直観だ。

 

だから「直観」した後で、

その選択が正しかったかどうか悩む人は、

直観との関わり方を間違っている。

 

直観と思考は選択式の回路では実はない。

 

直観と思考は互いに混じり合う。

 

思考は常に直観に導かれ、

直観の正しさを思考は検証する。

 

例えていうなら、

思考は一歩一歩の歩みであり、

直観はおおまかな方向性だ。

 

人間が考えるということをする時、

「考え事」は脳内という街並みを

大まかな方角(直観)と

一歩一歩の実際的足取り(思考)で進んでいく。

 

だからちゃんと思考できない人は

ちゃんと直観できない。

 

同様にちゃんと直観できない人は、

思考をどんなに重ねてもどこにも行きつかない。

脳内という町の中を無暗に徘徊するだけだ。

 

(直観なき思考を、ぐるぐる思考と恐らくは言うのだろう。)

 

直観の育て方は前回記事でも述べたように、

とにかく即決の習慣を付けることだ。

 

店での注文、買いもの、着る服、今日の料理・・・

 

あらゆる場面で直観の練習ができる。

  

26

 

さてここまで「発達遅れ」について語ってきたのだが

過剰発達というケースも勿論ある。

 

思考が過剰発達している場合、

とにかく理詰めですべてを分かろうとする。

そういう人は冷たい印象を人に与えていることだろう。

 

感情が過剰発達している場合、

自分の中に生起した感情こそは宇宙の中心だと誤解する。

そういう人は取り扱い注意という印象を人に与えていることだろう。

 

感覚が過剰発達している場合、

自分の好みかそうでないかだけですべてを判断してしまう。

そういう人は独善的との印象を人に与えていることだろう。

 

直観が過剰発達している場合、

その人は自分の中に生起した閃きことが宇宙の中心だと誤解する。

そういう人は盲信的で暴走気味との印象を人に与えていることだろう。

 

ただ言い方を変えれば

例えば思考が過剰発達しているということは

それ以外の発達が遅れているということと同義なので、

要するに、感情、感覚、直観を育てていけば良い。

 

我々の脳内は非常に複雑に入り組んでいる。

 

だから安直に、

自分は何が発達していて、何が遅れている、

と即断するのではなく、

「ある部分では〈**〉が発達している」

「ある部分では〈**〉が退化している」

と考えることが大切だ。

 

例えば僕の場合、

このような非常に込み入った事柄を文章化できるのだから

〈思考〉はかなり発達している。

 

しかし音楽に関しては

〈感覚〉は発達しているが〈思考〉ははるかに遅れている。

(だから自分の楽曲の理論的説明がつい最近まで出来なかった。)

 

音楽に関して理論が必要かどうかということを、

説明するのはここでの目的ではないので割愛するが、

僕自身の体験としては

〈思考〉を発達させたことで、

つまり理論を学習したことで、

それまでには出来なかった水準で〈感情〉を

音楽に表現することが出来るようになった。

 

(記事Ⅳで紹介した楽曲などがまさにこれに該当する)

 

このように、真逆と思える領域同士が

相互に補完し合うということが非常にしばしばある。

 

では僕は〈思考〉の発達が遅れているのか?

 

いや、つい先程述べたように

このような文章を書いている時点で

〈思考〉はかなり発達している。

 

つまり、これが僕の言いたいことだ。

  

発達や発達の遅れは非常に複雑に入り組んでいる。

 

そしてどの領域にも更なる活性化の余地がある。

 

 27

 

僕は最近こう考えている。

 

「ヒーリングや瞑想だけでは人は目覚めることはできない」

 

これは恐らく真実だ。

 

僕は10年ヒーリングをしてきた。

勿論ある程度まではヒーリングによって

人は目を覚ます。

肉体の感覚を取り戻し、

心が少しでも余裕を取り戻し、

今までよりも広い視野で人生を展望できるようになる。

 

しかしその先まで行けるかというと、

非常にあやしい。

 

膨大な盲点が人を待ち構えている。

 

その盲点こそが

「思考、感情、感覚、直観のアンバランスと

それが作り出している限界」だ。

 

更に問題を難しくしているのは、

この限界に独力で気付くことはほぼ不可能に近い、

ということだ。

 

そこで僕はヒーリングとはまた別の営みとして

希望者には、4つの領域の発達のための提案や指導を

していくことなのだろうと考えるようになりつつある。

 

このような考えに従って、

自分をより花開かせ、他者や地球の幸せに貢献したいと

もしあなたが願うの出れば、

こうした教えと実践をされるのも良いのではないかと思う。

 

話が非常に広がっているので、

ここで改めて整理をしつつ新しい視座を与えてみたいと思う。

 

まず僕は地球帰属意識というものを

人にもたらしたい思いで生きており、

その一環としてこのブログを書いている。

 

地球帰属意識というのは、

自分を一市民、家庭人、労働者、凡人、無能力者、

と見なすのではなく

地球に生き、地球に対して責任を持つ、

一生物との自覚を持つということだ。

 

そして人間はかくも影響力の大きい存在なのだから

可能な限り良い影響を地球に還元したいと望む意識のことを言う。

 

理想論を冷笑することなく、

ほどほどに善意を持つ人なら

「地球帰属意識を持ちましょう」という言葉に

別に異論はないことと思う。

 

しかし実際、「持ちます」と言って持てないのが

意識というものだ。

(どのような意識であれ。)

 

そこで意識を乗せる器、

すなわちふさわしい習慣や肉体というものが必要になる。

 

地球帰属意識を持つための具体的方法を僕は

前回と今回、伝えている。

 

話は理想論から具体的方法論まで広がったので

いくらか混乱しているのではないかと思う。

 

「本当にこの訓練が地球帰属意識に通じるのか?」

 

あまりにも手段と目標がかけ離れているから

そう感じるのは自然だ。

 

そして混乱する内に、またこうも思うことだろう。

 

「そもそもなぜ地球帰属意識を持たなければならないのか?」

 

この説明については・・・

つい先ほど述べたことを繰り返すしかない。

 

しかしそれでは頭の中の未消化感を払拭できないので、

別の説明を探している。

 

まず、地球帰属意識というものは

最終的には自然と持つ。

 

そのひとつ前の段階で

「自覚的に持とう」

と思う。

 

しかし更にそのひとつ前の段階では

「自覚的に持とう」

と思っても持てない。

 

理由は簡単で、

「身長が足りないから」だ。

 

理想というものは

非常に遠い時と、

非常に近い時に、持ち易いものだ。

 

なぜなら非常に遠い時には漠然としているので

その理想に内包されるストレスや苦労を

想像もできない。

つまり楽観的に物事を見ているので

達成も容易だろうと思える。

 

逆に理想に非常に近い時には、

ほとんどあと一つ残るものを変更さえすれば

達成できる、ということを知っている、

つまり課題が明確に具体的なので

これは実現できると思える。

 

 中間的な段階で、人は非常に迷う。

目標の価値を見失い、疑惑を持ち、諦める。

 

すると、それはそれで問題ない。

そんな面倒な目標は叶えなくても

無論、人生は変わらず続いていくので、

なんだ、やっぱりやらなくて良かったのだと、結論して

すっかり身を引くことだろう。

 

音楽や外国語の学習といった非常に具体的な事柄でさえ、

このようなことは頻繁に起きる。

 

いや、音楽や外国語などの技能に関することでは

達成すればその分、目の前で報いがあるので

はるかに継続しやすい。

 

ただ霊的な生き方、地球帰属意識に至るための生き方は

途中で報われることは非常に少ない。

むしろ社会と折り合いが悪くなることもあるだろう。

 

ただ僕は

 

「そう見えることもあるかもしれないが、

実際には報われていないことはない」

 

と断言する。

 

必ず何らかの形で報われている。

しかしあなたがそれを

「そんな報いに価値はない」と思えば

それまでだ。

 

僕は霊的な生き方に自覚的に入ってから

精神的、肉体的、経済的に非常に苦労した。

こんなに生きるのが大変だとは知らなかった。

 

でも僕はそれをやめようとは思わなかった。

 

そのうち、僕は本心から分かり合い、

互いを高め合える妻や友に出会えた。

  

僕がその生き方を選択しなければ

彼らと出会うことはなかった。

 

ただ僕がその価値に気付かない時期はあった。

 

「本心から話せる人には出会えた。

でも依然、僕はあれやこれやで苦しい」

 

見方を変えてみよう。

 

確かに依然、あれやこれやで苦しい。

 

でも仲間に出会えた。

 

完全な黒から、白の混じった黒になった。

 

白が最初は0,01%

次には1%。

次には10%。

次には・・・と進んでいき、

 

僕の主観では今70%。

 

物凄い進歩だ。

 

ある時期から加速度的に進歩が速くなった。

 

それは「良くなっている!」と気付き、

その感覚を大切にするようになってからだ。

 

自分の中の希望の火を

自分自身で軽率に吹き消すようなことを

しないように努めるようになってからだ。

 

僕のヒーリングを受けた人は

現実認識に対してだいたい二種類に分かれる。

 

「あれが変わった。これが良くなった。

新しいこの喜び・この苦しみに気付いた」

 

もう一方のグループの人は言う。

 

「あれが変わらない。これが変わらない。

ずっとある苦しみが今日も続いている」

 

どちらも、その人から見える風景を語っている。

当然、どちらも間違っていない。

 

しかしどちらが変化を受け入れているかは明らかだ。

 

毎日を新鮮に生きるためには、

より良い変化を人生に導き入れていくためには、

意図して自覚的に、

「変わらないもの」について

発言しない、思考しないことが重要だ。

 

あなたの人生は、

あなたの多く発言する事柄、

あなたの多く思考する事柄で成り立っている。

 

幸せになりたいのなら、

不幸なことを語るのは

ここぞという数分間だけにした方が良い。

 

そして二度も三度も語らないことだ。

 

さて僕はいま話の流れで

「幸せになりたいのなら」と言った。

 

個人の幸せ追及と地球帰属意識の関係について

僕は「バスで月に行くようなものだ」と

最初の記事あたりで述べた気がする。

(こんな喩えは使っていないが)

 

それは実際そうなのだが、

先程の「身長」の説明で言うと、

普通はある程度自分が幸せになってからでないと

他者や環境や地球への貢献云々は語れない。

無理があるのだ。

 

そこで矛盾ではなく、僕は

 

「ある程度の幸せ実現をまず体験し、

そのあと自然と地球帰属意識が芽生えるのを待つ」

 

ということを勧めたいと思う。

 

人間の一生というものは

すべて脳内の反映だ。

 

受け入れてもらえない、という考えが消えない人は

実際、受け入れてもらえていないことだろう。

 

その現実を見て、

「私がそう考えるのも無理はない」

と結論する。

 

強化されたその考えは、更に色を濃くして

人生を映し出す。

 

これが起きていることの説明だ。

 

だから同じことを逆から言えば、

脳内を変えられたら人生は変わるのであり、

人生が変われば脳内は更に変わっていく。

 

これが生まれ変わるということだ。

 

そのための具体的手段として、

僕は思考、感情、感覚、直観、

そしてそのすべての基礎を為すものとしての

肉体の活性化を勧めている。

 

今の自分のままでは現実は変わらない。

 

今のままでは、と思うから、

あなたはヒーリングを受けているのだろうし、

色々な新しい体験や情報を取り入れようともしていることだろう。

 

それはとても大切なのだが、

あくまでも他人が変えてくれる領域への影響に留まる。

 

あなたにしか変えられないあなたの領域は

あなたにしか変えられない。

 

思考、感情、感覚、直観、肉体を

自分自身の力で発達させていくことだ。

 

基本的には、あなたは親や社会が作った体と心をしている。

それは禁止と強制によって

無理やり魂が閉じ込められた結果としての歪な姿だ。

 

あなたはその姿を気に入っていない、

 

完全にとは言わない、

しかしあなたは自分自身の体と心を

自分の望むように作り変えていくことができる。

 

その達成の中で、人生の主役は自分なのだと分かるだろう。

そして人生は得難い大切なものだと分かるだろう。

 

あなたの「身長」はこうして少しずつ伸びていく。

 

いつか、手を伸ばせば届くあたりに

「地球帰属意識」「神」「愛」

という抽象的だった概念が、

強烈に実体感のあるエネルギーとして

存在を始めていることに気付くだろう。

 

「誰かに叶えてもらう幸せ」

「社会の価値に適合することで得られる幸せ」

 

ではなく

 

「自分を作り変えることによって得られる幸せ」

 

を具体的に今回の記事を頼りに実現してほしい。