ライトワーカーたちへ

ライトワーカーというのは

「地球にお助けに来た、外に故郷を持つ人」

のことです。

 

自称ライトワーカーは多いかもしれないですが、

本当に目覚めている人は実に少ない。

 

 

ライトワーカーでいることは苦しい事です。

かく言う私、じじちゃんも苦しかった。

 

だからこの世のどこかでひっそり頑張っているライトワーカーのために

応援になるようなことを書きたいと思います。

 

ライトワーカーは互いに高め合う必要がある・・・

と思います。

 

なので賛同される方は是非フォローとかメッセージを下さい。

 

世の中を良くしていくための活動を一緒にしていきましょう。

 

 

 

名もなき星の民から地球人へのメッセージⅥ(24~27)

24

 

今回は、思考、感情、感覚、直観について

更に立ち入って話をしてみたいと思う。

 

これら4つの機能は我々にとって

世界と関わる窓口であり、

また内部で起きるプロセスの実体だということを

前回の記事では述べた。

 

例えばある人の話を聞く。

 

語られていることの内容を理解しようとするのが〈思考〉、

聞きながらドキっとしたり、ムっとしたりするのが〈感情〉、

良い声だ、または嫌な喋り方だと感じるのが〈感覚〉、

これは私にとってきっと重要だ、と知るのが〈直観〉。

 

または例えば食事をする。

 

食材や調理法を知ろうとするのが〈思考〉、

食卓を楽しい又はつまらないと感じるのが〈感情〉、

料理の味や体との相性を感じようとするのが〈感覚〉、

食事できることの有難さを感じるのが〈直観〉。

 

分かるだろうか。

 

このバランスが悪いとどうなるだろう。

 

例えば〈思考〉偏重だと

栄養素や調理法、オーガニックであるかどうか、など

そういう情報が最も大切になる。

食卓の〈感情〉的風景は重要ではない。

体の〈感覚〉に合わなくても「良い」と信じ込んで

「良いと言われているもの」を食べる。

食事できることの有難さを〈直観〉することはない。

 

〈感情〉偏重だと、

食べている時間がとにかく楽しければ良いので

それが毒物だろうがフェイクだろうが関係ない。

楽しいからという理由でテレビを観ながらでも食べるし、

会話に夢中になって、味わいも噛みもせずに飲み込む。

 

〈感覚〉偏重だと、

味覚的に美味しければ、作られた過程が悪くても構わない。

感覚が満足するまで食べ、

食べすぎるとどうなるかという思考や

これは強欲なのではないかという直観が働かない。

 

〈直観〉偏重だと

食事できることの恩寵を過大に尊重し

ある種の独自の宗教的体験を作り出してしまう。

勿論、食事できることはとても有難いことなのだが、

暴走した直観はしばしば意見の一致しない他人を見下したり

批判したりすることを促す。

畏敬の念や高邁な思想も勿論大切だが

〈思考〉による栄養的観点や

他愛のない〈感情〉の喜びもまた大切であることを忘れ、軽視する。

 

では思考、感情、感覚、直観のすべてのバランスが良いと

どうなるだろう。

 

 健康的なものを、

心地よい感情風景の中で、

よく味わい、

またとない時間であることを感じる。

 

内訳はこうだ。

 

健康的なものを(←思考による正しい選択)

心地よい感情風景の中で(←感情による正しい参加精神)

よく味わい(←感覚による正しい体験)

またとない時間であることを感じる(←直観による正しい洞察)。

 

食事は毎日のことであるのに、

これはほとんどの人にとって離れ業だ。

 

それくらい、一つのことをする時に

思考、感情、感覚、直観のすべてを使用することは難しい。

 

自分はどの程度の配分か、あなたも考えてみてほしい。

 

25

  

我々が人生を生きるに当たって、

自分は思考、感情、感覚、直観の

どれを偏重し、どれを退化させているかを

考えてみることが大切だ。

 

その上で、この4つを出来るだけ均等に育てていくことを考える。

 

僕はここでケースごとに、

アドバイスを試みてみたいと思う。

 

〈思考〉の発達が遅れている場合。

 

症状は

・読み違え、聞き違えが多い

・自分の言葉が相手に通じない、誤解される

・意味が分からないと言われる、

・言葉が上手く出てこない、会話が苦手

・客観性がないと言われることが多い

 

前回記事でも述べたが、思考を発達させるには

思考が担当する活動を数多くすることだ。

 

重要なことは、どんな活動でも

思考、感情、感覚、直観、

いずれを使っても出来るということだ。

 

例えば

 

語学 × 思考なら、文法を、

音楽 × 思考なら、音楽理論を、

絵画 × 思考なら、忠実な模写を

体操 × 思考なら、肉体の理屈を、

料理 × 思考なら、レシピの文化背景や調理法を

 

学ぶことだ。

 

ここで注意してもらいたいのは

何のためにそれをしているのかということ。

 

例えば文法を学ばなくても

〈感覚〉の経験を蓄積していけばいずれ

外国語を話せるようにはなるし、

音楽理論を知らずとも良い演奏は出来る。

 

しかし僕はカルチャースクールのような話をしているのではなく、

霊的という在り方の実現について語っている。

 

だから思考を育てたいのであれば

思考の経路によって何事も関わらなければいけない。

 

思考に関する苦手意識を克服し、

 

「自分は賢くなれる」

「理解しようとすれば何でも理解できる」

「伝えようとすれば何でも伝えられる」

 

という体験を自分自身に与えていこう。

 

次に

〈感情〉の発達が遅れている場合。

 

症状は

・いつも我慢する役回り

・わがままな人が近くにいる

・感情を表現できない

・言葉を飲み込んでしまうことが多い

 

感情が退化している理由は

感情を自由にすると不利益を被るという

数多く経験を重ねたからだ。

 

しかし皮肉にも、感情を不自由にすれば

更なる不利益が待っている。

 

感情を発達させるためには何が出来るだろう。

 

受動的でいるだけでは育たない。

つまりどんなに泣ける映画を観ても

あなたの感情が発達することはない。

 

感情の発達のさせ方は実はかなり難しい。

 

なぜなら

「解放すべき天然の感情」と

「無視すべき誤りの感情」の区別が

ほとんどの人には付かないからだ。

 

例えば極端な話、

肉体の状態がすこぶる悪く、

そのせいで終始いらいらしている人のいらいらは

解放すべきものだろうか?

 

この人が自制して健全な生活を送れば即座に霧消する否定的感情を

他人にぶつけることが、許されるものだろうか。

 

思考は一人で練習できる領域だが、

感情は他人あっての領域だから、とても難しい。

 

よくある質問や相談で

「あの人(や出来事)を嫌だと思うこの感情に従って良いですか」

というものがある。

「あの人(や出来事)を嫌だと思う気持ちをどうしても払拭できない」

という告白もある。

 

僕の経験上、

この種の考えを持つ人は思い込みが強く、

そのために曲解または拡大した現実の解釈に苦しんでいる。

 

簡単に言うと、

「あなたがもっと正気になれば、それは全然苦しみではないはずだ」

と僕は常に感じる。

 

感情に関してはこのようなことが実態だから、

練習としても、特定の人に向ける感情の吐き出しなどは

恐らくすべきではないのだろう。

更なる悲しみを作り出すだけだ。

 

それよりも、自分一人で出来る感情発達の方法を考えてみた。

 

それは「歌う」ことだ。

 

歌うことで、錆びついていた感情という歯車が

次第に回り出す。

 

技術的にではなく、体感的に上手く歌えない内は

まだ感情は固まっている。

ゆるゆると、または体を響かせるように歌えるようになったら

感情はゆるやかになってきている。

 

そう考えてやってみると良いだろう。

 

歌う時、喉元で歌うのではなく、

体を響かせるように、誰かに聴かせるように歌うと良い。

 

実際に、人に聴いてもらうと良いだろう。

 

次に

〈感覚〉の発達が遅れている場合。

 

症状は

・体をぶつけることが多い

・忘れ物や不手際が多い

・物をよく落とす

・2つのことを同時に出来ない

・不器用

 

感覚は皮膚感覚や生理感覚、身体感覚といったものに分類される。

 

体を緊張させたり冷やしたりする服を着たり

ものを食べたりして何も気付かない人は、

感覚が鈍いと言える。

 

また感覚が鈍いので、

対象との距離や

取り扱いの塩梅などを

感じ取ることが出来ない。

 

感覚は他と同様、使用すれば発達していき、

それは他に比べたらはるかに容易だと思う。

 

 例えば

裸足で土の上に、草の上に立つ。

触るとくすぐったい場所をくすぐったくなくなるまで触る。

瞑想し、体の緊張を緩める。

 

こういうことで発達する、

というか基礎レベルまですぐに戻る。

 

更に発達させるためには

現在の感覚に意識を集中することだ。

 

例えば

食事している時、目を閉じ、会話をやめ、テレビや音楽を消し、

ゆっくりと口の中のものを味わう。

その味わいについてエッセイを書くくらいのつもりで味わう。

または歩いている時、足の裏や尻の動きを感じる。

その動きについてレポートを書くくらいのつもりで味わう。

 

いや、むしろ実際レポートを書くことだ。  

 

あとはデリケートな動きを要することをすると良い。

陶芸、楽器、書道、など。

 

スポーツなどの動きが大振りなものは勧めない。

 

最後に

〈直観〉の発達が遅れている場合。

 

症状は

・何事も決定するのが遅い

・決定してから撤回、変更する

・過ぎたことをうじうじ悩む

・勇気が無い

・ネガティブな状況を予想をすることが多い

 

直観は感情と並んで扱いが難しい。

 

感情を何でもかんでも認めてはいけないように、

直観だからと言って無暗に有難がってはいけない。

 

直観は正解を示している訳ではない。

 

「正解でなくても構わない」

という発想が、直観だ。

 

だから「直観」した後で、

その選択が正しかったかどうか悩む人は、

直観との関わり方を間違っている。

 

直観と思考は選択式の回路では実はない。

 

直観と思考は互いに混じり合う。

 

思考は常に直観に導かれ、

直観の正しさを思考は検証する。

 

例えていうなら、

思考は一歩一歩の歩みであり、

直観はおおまかな方向性だ。

 

人間が考えるということをする時、

「考え事」は脳内という街並みを

大まかな方角(直観)と

一歩一歩の実際的足取り(思考)で進んでいく。

 

だからちゃんと思考できない人は

ちゃんと直観できない。

 

同様にちゃんと直観できない人は、

思考をどんなに重ねてもどこにも行きつかない。

脳内という町の中を無暗に徘徊するだけだ。

 

(直観なき思考を、ぐるぐる思考と恐らくは言うのだろう。)

 

直観の育て方は前回記事でも述べたように、

とにかく即決の習慣を付けることだ。

 

店での注文、買いもの、着る服、今日の料理・・・

 

あらゆる場面で直観の練習ができる。

  

26

 

さてここまで「発達遅れ」について語ってきたのだが

過剰発達というケースも勿論ある。

 

思考が過剰発達している場合、

とにかく理詰めですべてを分かろうとする。

そういう人は冷たい印象を人に与えていることだろう。

 

感情が過剰発達している場合、

自分の中に生起した感情こそは宇宙の中心だと誤解する。

そういう人は取り扱い注意という印象を人に与えていることだろう。

 

感覚が過剰発達している場合、

自分の好みかそうでないかだけですべてを判断してしまう。

そういう人は独善的との印象を人に与えていることだろう。

 

直観が過剰発達している場合、

その人は自分の中に生起した閃きことが宇宙の中心だと誤解する。

そういう人は盲信的で暴走気味との印象を人に与えていることだろう。

 

ただ言い方を変えれば

例えば思考が過剰発達しているということは

それ以外の発達が遅れているということと同義なので、

要するに、感情、感覚、直観を育てていけば良い。

 

我々の脳内は非常に複雑に入り組んでいる。

 

だから安直に、

自分は何が発達していて、何が遅れている、

と即断するのではなく、

「ある部分では〈**〉が発達している」

「ある部分では〈**〉が退化している」

と考えることが大切だ。

 

例えば僕の場合、

このような非常に込み入った事柄を文章化できるのだから

〈思考〉はかなり発達している。

 

しかし音楽に関しては

〈感覚〉は発達しているが〈思考〉ははるかに遅れている。

(だから自分の楽曲の理論的説明がつい最近まで出来なかった。)

 

音楽に関して理論が必要かどうかということを、

説明するのはここでの目的ではないので割愛するが、

僕自身の体験としては

〈思考〉を発達させたことで、

つまり理論を学習したことで、

それまでには出来なかった水準で〈感情〉を

音楽に表現することが出来るようになった。

 

(記事Ⅳで紹介した楽曲などがまさにこれに該当する)

 

このように、真逆と思える領域同士が

相互に補完し合うということが非常にしばしばある。

 

では僕は〈思考〉の発達が遅れているのか?

 

いや、つい先程述べたように

このような文章を書いている時点で

〈思考〉はかなり発達している。

 

つまり、これが僕の言いたいことだ。

  

発達や発達の遅れは非常に複雑に入り組んでいる。

 

そしてどの領域にも更なる活性化の余地がある。

 

 27

 

僕は最近こう考えている。

 

「ヒーリングや瞑想だけでは人は目覚めることはできない」

 

これは恐らく真実だ。

 

僕は10年ヒーリングをしてきた。

勿論ある程度まではヒーリングによって

人は目を覚ます。

肉体の感覚を取り戻し、

心が少しでも余裕を取り戻し、

今までよりも広い視野で人生を展望できるようになる。

 

しかしその先まで行けるかというと、

非常にあやしい。

 

膨大な盲点が人を待ち構えている。

 

その盲点こそが

「思考、感情、感覚、直観のアンバランスと

それが作り出している限界」だ。

 

更に問題を難しくしているのは、

この限界に独力で気付くことはほぼ不可能に近い、

ということだ。

 

そこで僕はヒーリングとはまた別の営みとして

希望者には、4つの領域の発達のための提案や指導を

していくことなのだろうと考えるようになりつつある。

 

このような考えに従って、

自分をより花開かせ、他者や地球の幸せに貢献したいと

もしあなたが願うの出れば、

こうした教えと実践をされるのも良いのではないかと思う。

 

話が非常に広がっているので、

ここで改めて整理をしつつ新しい視座を与えてみたいと思う。

 

まず僕は地球帰属意識というものを

人にもたらしたい思いで生きており、

その一環としてこのブログを書いている。

 

地球帰属意識というのは、

自分を一市民、家庭人、労働者、凡人、無能力者、

と見なすのではなく

地球に生き、地球に対して責任を持つ、

一生物との自覚を持つということだ。

 

そして人間はかくも影響力の大きい存在なのだから

可能な限り良い影響を地球に還元したいと望む意識のことを言う。

 

理想論を冷笑することなく、

ほどほどに善意を持つ人なら

「地球帰属意識を持ちましょう」という言葉に

別に異論はないことと思う。

 

しかし実際、「持ちます」と言って持てないのが

意識というものだ。

(どのような意識であれ。)

 

そこで意識を乗せる器、

すなわちふさわしい習慣や肉体というものが必要になる。

 

地球帰属意識を持つための具体的方法を僕は

前回と今回、伝えている。

 

話は理想論から具体的方法論まで広がったので

いくらか混乱しているのではないかと思う。

 

「本当にこの訓練が地球帰属意識に通じるのか?」

 

あまりにも手段と目標がかけ離れているから

そう感じるのは自然だ。

 

そして混乱する内に、またこうも思うことだろう。

 

「そもそもなぜ地球帰属意識を持たなければならないのか?」

 

この説明については・・・

つい先ほど述べたことを繰り返すしかない。

 

しかしそれでは頭の中の未消化感を払拭できないので、

別の説明を探している。

 

まず、地球帰属意識というものは

最終的には自然と持つ。

 

そのひとつ前の段階で

「自覚的に持とう」

と思う。

 

しかし更にそのひとつ前の段階では

「自覚的に持とう」

と思っても持てない。

 

理由は簡単で、

「身長が足りないから」だ。

 

理想というものは

非常に遠い時と、

非常に近い時に、持ち易いものだ。

 

なぜなら非常に遠い時には漠然としているので

その理想に内包されるストレスや苦労を

想像もできない。

つまり楽観的に物事を見ているので

達成も容易だろうと思える。

 

逆に理想に非常に近い時には、

ほとんどあと一つ残るものを変更さえすれば

達成できる、ということを知っている、

つまり課題が明確に具体的なので

これは実現できると思える。

 

 中間的な段階で、人は非常に迷う。

目標の価値を見失い、疑惑を持ち、諦める。

 

すると、それはそれで問題ない。

そんな面倒な目標は叶えなくても

無論、人生は変わらず続いていくので、

なんだ、やっぱりやらなくて良かったのだと、結論して

すっかり身を引くことだろう。

 

音楽や外国語の学習といった非常に具体的な事柄でさえ、

このようなことは頻繁に起きる。

 

いや、音楽や外国語などの技能に関することでは

達成すればその分、目の前で報いがあるので

はるかに継続しやすい。

 

ただ霊的な生き方、地球帰属意識に至るための生き方は

途中で報われることは非常に少ない。

むしろ社会と折り合いが悪くなることもあるだろう。

 

ただ僕は

 

「そう見えることもあるかもしれないが、

実際には報われていないことはない」

 

と断言する。

 

必ず何らかの形で報われている。

しかしあなたがそれを

「そんな報いに価値はない」と思えば

それまでだ。

 

僕は霊的な生き方に自覚的に入ってから

精神的、肉体的、経済的に非常に苦労した。

こんなに生きるのが大変だとは知らなかった。

 

でも僕はそれをやめようとは思わなかった。

 

そのうち、僕は本心から分かり合い、

互いを高め合える妻や友に出会えた。

  

僕がその生き方を選択しなければ

彼らと出会うことはなかった。

 

ただ僕がその価値に気付かない時期はあった。

 

「本心から話せる人には出会えた。

でも依然、僕はあれやこれやで苦しい」

 

見方を変えてみよう。

 

確かに依然、あれやこれやで苦しい。

 

でも仲間に出会えた。

 

完全な黒から、白の混じった黒になった。

 

白が最初は0,01%

次には1%。

次には10%。

次には・・・と進んでいき、

 

僕の主観では今70%。

 

物凄い進歩だ。

 

ある時期から加速度的に進歩が速くなった。

 

それは「良くなっている!」と気付き、

その感覚を大切にするようになってからだ。

 

自分の中の希望の火を

自分自身で軽率に吹き消すようなことを

しないように努めるようになってからだ。

 

僕のヒーリングを受けた人は

現実認識に対してだいたい二種類に分かれる。

 

「あれが変わった。これが良くなった。

新しいこの喜び・この苦しみに気付いた」

 

もう一方のグループの人は言う。

 

「あれが変わらない。これが変わらない。

ずっとある苦しみが今日も続いている」

 

どちらも、その人から見える風景を語っている。

当然、どちらも間違っていない。

 

しかしどちらが変化を受け入れているかは明らかだ。

 

毎日を新鮮に生きるためには、

より良い変化を人生に導き入れていくためには、

意図して自覚的に、

「変わらないもの」について

発言しない、思考しないことが重要だ。

 

あなたの人生は、

あなたの多く発言する事柄、

あなたの多く思考する事柄で成り立っている。

 

幸せになりたいのなら、

不幸なことを語るのは

ここぞという数分間だけにした方が良い。

 

そして二度も三度も語らないことだ。

 

さて僕はいま話の流れで

「幸せになりたいのなら」と言った。

 

個人の幸せ追及と地球帰属意識の関係について

僕は「バスで月に行くようなものだ」と

最初の記事あたりで述べた気がする。

(こんな喩えは使っていないが)

 

それは実際そうなのだが、

先程の「身長」の説明で言うと、

普通はある程度自分が幸せになってからでないと

他者や環境や地球への貢献云々は語れない。

無理があるのだ。

 

そこで矛盾ではなく、僕は

 

「ある程度の幸せ実現をまず体験し、

そのあと自然と地球帰属意識が芽生えるのを待つ」

 

ということを勧めたいと思う。

 

人間の一生というものは

すべて脳内の反映だ。

 

受け入れてもらえない、という考えが消えない人は

実際、受け入れてもらえていないことだろう。

 

その現実を見て、

「私がそう考えるのも無理はない」

と結論する。

 

強化されたその考えは、更に色を濃くして

人生を映し出す。

 

これが起きていることの説明だ。

 

だから同じことを逆から言えば、

脳内を変えられたら人生は変わるのであり、

人生が変われば脳内は更に変わっていく。

 

これが生まれ変わるということだ。

 

そのための具体的手段として、

僕は思考、感情、感覚、直観、

そしてそのすべての基礎を為すものとしての

肉体の活性化を勧めている。

 

今の自分のままでは現実は変わらない。

 

今のままでは、と思うから、

あなたはヒーリングを受けているのだろうし、

色々な新しい体験や情報を取り入れようともしていることだろう。

 

それはとても大切なのだが、

あくまでも他人が変えてくれる領域への影響に留まる。

 

あなたにしか変えられないあなたの領域は

あなたにしか変えられない。

 

思考、感情、感覚、直観、肉体を

自分自身の力で発達させていくことだ。

 

基本的には、あなたは親や社会が作った体と心をしている。

それは禁止と強制によって

無理やり魂が閉じ込められた結果としての歪な姿だ。

 

あなたはその姿を気に入っていない、

 

完全にとは言わない、

しかしあなたは自分自身の体と心を

自分の望むように作り変えていくことができる。

 

その達成の中で、人生の主役は自分なのだと分かるだろう。

そして人生は得難い大切なものだと分かるだろう。

 

あなたの「身長」はこうして少しずつ伸びていく。

 

いつか、手を伸ばせば届くあたりに

「地球帰属意識」「神」「愛」

という抽象的だった概念が、

強烈に実体感のあるエネルギーとして

存在を始めていることに気付くだろう。

 

「誰かに叶えてもらう幸せ」

「社会の価値に適合することで得られる幸せ」

 

ではなく

 

「自分を作り変えることによって得られる幸せ」

 

を具体的に今回の記事を頼りに実現してほしい。

 

名もなき星の民から地球人へのメッセージⅤ(20~23)

20

 

 霊的、という言葉は何を意味するのだろう。

 

それは

 

「人間としての良き資質を全方位的に活かして生きている」

 

ということだ。

 

分かりやすく言うと、

感情が深く、

知性が高く、

肉体と精神が健康で、

能力的に万能の人になるということだ。

 

(実際万能かどうかではなく、

「やれば何でもできる」と思える自己認識)

 

実は人は潜在的には誰もがそうなれる。

 

しかし努力しなければなれない。

 

努力しなければならないようなものに

ならなければならないのだろうか?

 

とあなたは思うかもしれない。

 

答えは

「ならなければならない」

 

むしろ人間は努力していなさすぎる。

 

鳥は努力をしている。

植物は努力をしている。

 

それは生きるための努力、

自分に生存を全うための毎日の努力だ。

それを他人任せにせず、

自前の精神と肉体と能力でまかなう。

 

人間はそれをしているだろうか?

 

していない。

 

人間がしている努力の大半は、

他人に気に入られるための努力、

社会の間違った教えに無理やり自分を押し込めるための努力、

そして絶対必要な訳ではないものを手に入れるための努力だ。

 

人間は、少なくとも我々のような豊かな国の住人は、

根源的な意味で、生きるための努力ということをしていない。

 

それが悪いのではない。

必要ないからしていないだけだ。

 

だが必要ないからしていない内に、

本来の努力の内容も目的も、

それをすべきであることも忘れてしまった。

 

例えばお金のために必死に「努力」する。

 

この言葉の意味を考えてみると、

お金がなくなっても実はその時点で死ぬ訳ではない。

 

妄想の不安が現実の問題よりも

はるかに大きなサイズになっている典型だ。

 

なぜならお金がないなら

実家に帰ることもできるし

人に頭を下げて借りることも恵んでもらうこともできる。

(実際、そうするしかないだろう。恥を忍んででも)

 

つまり、お金のために必死で、と言っても

実際には、お金がなければ無いでどうにかする。

 

もっと突っ込んで言えば、

「お金が無いなら無いでどうにかする、という

したたかな自分の側面がそこでにわかに登場する」

 

ただ、そこまで追い込まれていない今は

プライドや固定観念のために

親を頼ったり、人に頭を下げたり出来ない、

と決め込んでいるだけだ。

 

こういうものは、他の生物たちがしている

「生きるための、自分でしかしようのない努力」

とは別のものだということが、分かるだろう。

 

この観点で見直してみると、

本当の意味で生きることに直結した努力を

豊かな国の人間はまずしていない。

 

でも努力しているふうに「錯覚」はしている。

 

お客の期待に答える努力、

必死で人々に受け入れてもらおうとする努力、

社会が価値を置く基準を満たそうとする努力・・・

 

しかしこれらの努力が錯覚である証拠に、

その人が「こんな努力は要らない」と気付くやいなや、

そんな努力は全然要らない人生に自動的に移行する。

 

そのような人生では、

あなたは自分らしく自分に出来ることを

自然体でやっているだけで

人から受け入れられ、求められ、

お金を稼ぐことが出来る。

 

その時点であなたにははっきり分かる。

「あれは努力ではなかった」と。

 

我慢、苦労、自分殺しを努力と誤解していただけだ。

 

努力は、ポジティブな営みだ。

生きることとイコールだからだ。

 

(再び、鳥や植物を思ってほしい。)

  

努力せずに生きるということは

僕の好きな言葉で言うと

「ヒリヒリした感覚」で生きていない

ということだ。

 

むしろ

相手に調子を合わせ、

会社に調子を合わせ、

客に調子を合わせ、

または収入のある夫に調子を合わせ、

親に調子を合わせ、

「自分らしくあるという努力をしないこと」によって生きている、

と言うのが正しい。

 

今の多くの人たちの悩みや迷いの原因は実は

「ヒリヒリと生きていない」ことによる。

 

魂で全力で生きているという実感がないのだ。

 

それならばいっそ貧しい国にでも行ってボランティアでもするか?

 

そういう話ではない。

 

戻ってきたらまた同じだ。

 

ヒリヒリと生きるためには

緊張感と新鮮さが必要だ。

 

あなたは緊張感を持って、

常に新鮮なことをしているだろうか。

 

その緊張感は良い緊張感だろうか。

そしてその新鮮さは本当の意味での新鮮さだろうか。

 

(新鮮さと誤解している惰性があることに注意しよう。)

 

ある肉体運動をする。

すると自分の中によく知らない筋肉や感覚があって動いている。

それは自分の一部なのに全然使って来ず、

出番が来て喜んでいる。

 

ある知的活動をする。

すると自分の中によく知らない脳の分野があって火花を散らす。

そこもまたずっと使って来なかった。

出番が来て喜んでいる。

 

我々の心や体や頭脳の中には、

神(または神的存在)によって高度な能力を与えられた、

でもずっと出番の来ないでいる領域や存在が満ちている。

 

そのすべての能力は自分の所有物ではなく、

宇宙という広大無辺のエネルギーに属している。

 

だから自分の内部を開拓し、

「私」の中に統合していくことで

あなたは宇宙や摂理、世界、神、他人、

そして自分自身を理解することが出来る。

 

自分の内部の開拓した量が少ない人は

人生に対しても自分に対しても無知だ。

 

一方、自分の内部を開拓すればするほど

人は愛に気付ける。

幸せを実現する。

 

人間の潜在的な良き資質は、

このようにして開かれていく。

緊張感と新鮮さによって。

 

そのために何が出来るのか、何をすべきなのか、

それをお伝えしたい。

 

21.

 

努力の意味は、

「やりたくもないことを受け入れる」

ということではない。

 

自分の潜在能力を解き明かすための冒険・・・

と言えるかもしれない。

 

僕は「私には出来ない」という人を

かなり見る気がする。

 

だいたいそういうことを言う人は

試してみてもいない。

試しても一度や二度で、

続けていない。

 

「やったことがない」

と言えば事実なのに

「出来ない」

「出来るわけがない」

と思いこむ。

 

その理由は、

自分を大したことのない人間だと思い込んでいるからだ。

 

(多分子供の頃の挫折や拒絶の体験に根差している・・・

しかしだからと言って、それを言い訳にして

成長を止めてはいけない。)

 

別にそれは例えば

芸術の創作とか

外国語とか

スポーツとか、

特定の能力を要するものに限らない。

 

なぜなら、このような考え方をする人たちは

 

「私は鈍感だから他人の気持ちなんて分からない」

「その時々の正しい在り方なんて自分では分からない」

 

と言い張り、

そういうことが分かる人たちを

超能力者や何であれ「凄い人」として

自分から隔ててしまう。

 

そして、自分は凄くない人だから

そのあたりのことは努力しなくて良い、と考える。

 

僕は経験からこう考える。

分からない人はそもそも分かろうとしていない。

 

何か、面倒くさいらしい。

 

前回の記事で書いた「上手く言えない」も同様だ。

 

そもそも伝えようとする気がない。

 

(多分その理由も、幼少期の挫折や拒絶の体験に拠る。

でもそれを言い訳にして自分を甘やかさないようにしよう。)

 

だから自己完結的な言葉で話したり、

小さな声で話したりする。

 

相手を喜ばせたり、楽しませたり、

相手にとって理解しやすいように話そうとすることを考えず、

自分の脳内の呟きをただ宛てもなく発声する。

 

それは「いま自分がこの人と一緒にいる」

「今この人とだけ出来ることがある」

ということを大切にしようという発想がない点で

非常に孤独だ。

 

相手を喜ばせる、楽しませる、とは

お世辞を言ったり、ニコニコしたりすることではない。

 

相手と自分が持ち得る有意義な時間を持とうとする、

ということだ。

 

それは本当の意味で、相手を大切にすることだ。

 

あなたは相手を喜ばせたり輝かせたりする意識で

人と付き合っている自覚があるだろうか。 

 

特殊な技能では全然ないコミュニケーションでも

このようなことがすでに起きている。

 

実際、いざ相手のために良い時間を持とうと思うと、

あなたはかなり神経を使うことに気付くだろう。

 

念のため繰り返すけれど、

いわゆる「相手に良い思いをさせるための」

リップサービスの類の話をしているのではない。

 

「こんにちは」

「こんにちは」

「元気ですか?」

「元気ですよ。あなたは?」

「元気です。最近は何をしているの?」

 

というような、まるで日本語の例文のようだが

こういう会話を出来る人は凄く少ない。

 

「こんにちは」

「こんにちは」

「元気ですか?」

「はい。まあなんとか」

 

だいたいここで終わる。

 

なぜだか分かるだろうか。

 

相手を気遣う心の訓練を日頃していないからだ。

質問されて呟くところで会話の想定が終わっている。

 

これではとても他人と、世界と、地球と、

見えない存在たちとは繋がれない。

 

貰うばかりだからだ。

(この場合は質問や気遣いを)

 

自分は受け取る側、と決め込んでしまうと

このようなことが起きる。

 

逆に言えば、この程度の簡単な所から

人との関わり方を見直していくことができる。

 

もしあなたが、他人と会話を弾ませるのが下手だと思うなら、

多分あなたはこういう気遣いをしていない。

 

逆にそこで気遣いをしない代わりに

「ああ思うんじゃないだろうか」とか

「こう思ったんじゃないだろうか」とか

無用な気遣いをしているかもしれない。

 

いま何の話をしているのかと言うと、

光を投げかけられたら光を映し返す存在になろう、

ということだ。

さもなければ、与えられた光を吸い込む黒い存在にしかならない。

 

冒頭で僕は

「人間としての良き資質を全方位的に活かして生きる」

ということを霊的だと語った。

 

他人を思いやることや、

光を照り返すこと、

より良い時間を作り出そうとすること、

それらはすべて人間の潜在的な良き資質だ。

 

それを育てていこう。

 

それに続いて僕はこうも書いた。

 

「分かりやすく言うと、

感情が深く、

知性が高く、

肉体と精神が健康で、

能力的に万能の人になるということだ。」

 

相手と繋がろうという意識の力を持つようになると

感情が深くなり、言語能力(知性)が高まる。

 

人間は孤立化するとあらゆる能力や資質が

退化してしまう存在だ。

 

逆に言えば、

本当の意味で、いま目の前にいる人と繋がる努力が

あなたの中のあらゆる能力や資質を進化させる。

 

僕は

「ヒリヒリとした感覚を持って生きる」

とも書いた。

 

今日会うその人は、たとえ先月も会っていたとしても

今日という日に現れた新鮮な人だ。

 

おなじみの相手、

おなじみの場面、

と決め込むのではなく、

新鮮な目で相手を見て、世界を見る。

 

世界を惰性にするのも新鮮にするのも

あなたの意識次第だ。

 

ちなみに僕はすべての人と新鮮な意識で会っている。

相手の様子を伺い、言葉をかけ、

相手の必要としていることをする。

今日がその人と会う最後の日だとしても悔いのないように接する。

 

他人でも、妻でも、両親でも、お店の人でもだ。

 

やってみると、それがどんなにか

「ヒリヒリする」ことか分かるだろう。

 

別に痛い訳ではない。

 

ただ、大切で壊れやすいものを持つ緊張感を

自覚的に持とうとしているだけだ。

なぜなら、その方が大切に出来る。

 

食器でも、体でも、お金でも、

音楽でも、時間でも、言葉でも。

 

この緊張感だけが、あなたから

本来の感受性や意欲や優しさやたくましさを引き出す。

 

僕が伝えたい「人との関わり方」は

巷のコミュニケーション術ではない。

 

自分を輝かせ、人生を大切にするための方法を

お教えしている。

 

22.

 

コミュニケーションについて見直すべきことを書いた。 

次に「技能的なこと」について書こうと思う。

 

実に人間は色々なことが出来る。

 

色々なことが出来る人を見ると、人は

 

「何でも出来て凄い」と言ったり

「どれも中途半端で酷い」と言ったりするが、

 

全然本質的でない。

 

単純に、人間は色々なことを実行できるという事実があるだけだ。

 

絵を描けない人というのは、一人もいない。

なぜなら鉛筆を走らせればそれは絵だし、

色を適当に塗ればそれも絵だ。

 

ただ人は非常にエゴが強い。

 

それを絵として認識しようとしない。

 

事実として絵なのに、絵ではないと言い張る。

 

僕が言いたいのは、「絵を描くべきだ」では

勿論ない。

 

絵を描けるのに、「描けない」と言う。

それは絵なのに、「絵ではない」と言う。

 

これは現実を自分勝手に捻じ曲げるエゴの心の為せるわざだ。

 

エゴとは・・・

わがままとか、利己的とか、そういう意味ではない。

 

自分の都合で事実を捻じ曲げる心をエゴと言う。

 

あなたもあなたの中にエゴを探してみると良い。

 

そのエゴはいつもこう言っている。

 

「私は出来ない」

「私には分かる訳が無い」

 

(=「だから私はやらなくて良い」

これが本命の発言だ。)

 

僕が、そういう考えは駄目だと言っている理由は、

他でもない、それが「エゴの声」だからだ。

 

エゴの声に従ってはいけない。

エゴはただあなたを不幸にだけ導く。

 

むしろ「出来ない」とそこまで言い張りたいことこそ

やってみたら良い。

 

こういうふうにテストする。

 

「歌ってみたら?」

「いやいやいや!歌えないです」

 

「テニスをしてみたら?」

「いや、テニスは別にしたくないです」

 

歌の方は、エゴの声だ。

本当は歌いたい。

 

テニスの方は本心の声だ。

本当に興味が無い。

 

本心の声だから

「したくない」を「できない」にすり替えない。

 

エゴはいつもすり替える。

自分のプライドを守りたい一心で、だ。

 

無用のプライドを多く抱える人は

エゴに取り込まれている。

 

エゴは人間に何の益も為さない。

このブログを読むようなあなたには

エゴから進んで離れる努力をしてほしいと願っている。

 

僕の話をすると・・・

チェロとヴァイオリンとギターを弾き、

歌い、作曲し、作詞し、

絵を描き、書をし、小説を書き、

外国の友達とは英語で話す。

日曜大工をし、料理をし、パンを焼く。

勿論、仕事ではヒーリングの他に

カウンセリングもマッサージもレッスンもする。 

 

すると

「何でもできて凄い」

と大概の人は言う。

 

でも僕が思うのは

「(僕が凄いのではなくて)

こんなに色々出来るように設計された人間が凄い」

ということだ。

 

僕はその素晴らしさを楽しみ愛でるために

これらのことをやっている、とも言える。

 

ちなみに上記の中で、

「出来る」と事前に分かっていて始めたことは一つもない。

 

ただ、やった結果、続けた結果、

それなりに出来るようになっただけだ。

 

まだまだ深めていきたいし、

新たに始めたいこともきっとある。 

 

このように生きていると、

前回の記事でも書いたが

「人間は凄いなあ、美しいなあ」

「よくこんなに素晴らしい生き物を作ったなあ」

と自然と思う。

 

すると「つまらないことはやめよう」と自然と思う。

 

僕は人の話を聞くことが仕事柄多いが、

実にくだらないことで多くの人が悩んだり

怖気づいたりしているのに気付く。

 

そんなものは、自分という存在の素晴らしさに気付いたら

風の前の塵のように吹き飛んでしまうというのに、

そういう悩み事の数々と大切に抱えている

(つもりはないだろうが、そう見えるし、

あなたも絶対にいつか自分をそう振り返る)。

 

あなたは何を苦手としているだろうか。

苦手としながら、惹かれているだろうか。

 

歌うことが怖い。

それなら歌えば良い。

 

歌ったら、今度は人に聴かせるのが怖いだろうか。

それなら人に聴かせれば良い。

 

単純なこの方法だけで、

あなたは自己実現していくことが出来る。

 

23

 

自分という存在、

人間という宇宙の玉手箱を

いかにして満遍なく開封していくことが出来るだろう。

 

つい先程は「怖いことほどやるべきだ」と言ったが、

それとは別口に、

「何であろうとやるべきだ」という事柄について述べる。

 

人間のいくつかの重要な内部領域として、

〈思考〉、〈感情〉、〈感覚〉、〈直観〉、〈肉体〉がある。

 

このすべてが均等に発達している状態は

なかなか得難い。

 

しかし出来るだけ均等に発達させた方が良い。

 

考えてみてほしい。

 

上昇は得意だが、

旋回が苦手な鳥を。

 

目は良いが

獲物の捕獲が苦手な鳥を。

 

偏りを埋めていかなければならないことは自明だ。

 

一つ一つ説明しよう。

 

〈思考〉は言語的、論理的、理論的、

定型的、詳細な事柄を扱う。

 

ここは外国語、各種理論、数学の学習、読書、

文法・語法・語彙選択の正しい文章作成、

将棋などのゲーム、

「再現」を目的とする創作

(書道、デッサン、レシピの明確な料理や陶芸)

などで培うことが出来る。

 

特に霊的志向の強い人にとって、

思考は軽視されがちだ。

しかし実際には、思考の発達の遅れが

霊的成長を遅らせる元凶になっていることは非常に多い。

 

思考は不要、とスピリチュアルの分野では多く語られるが、

それは無用の思考、雑念の集合、

地に足のつかない空想や被害妄想の弄びのことであって、

本当に霊的に生きるためには

客観的に正しく現実を見ることを担当する思考を鍛えておかないと、

あなたはいつでも容易に道を踏み外すことになる。

 

(僕は思考の発達遅れのせいでコースアウトした人を

かなり見てきた。)

 

次に〈感情〉だが、

やはりここも誤解の言説があり、

「感情に振り回されない方が良い」

ということはよく言われる。

 

しかしその感情は低次元の感情であって、

そういう感情は、エゴが捻じ曲げた事実や現実に由来するものだ。

 

しなくて良い我慢をする、

素直にやれば良いことをやらない、

自分にも非のあることを認めない・・・

 

これらの間違った認識からは間違った感情しか生まれない。

 

こういうものに振り回されてはいけないが、

その上で生起する感情はいわば「天然由来」であって、

このような感情にはむしろ進んで同化しなければいけない。

 

なぜならそのような感情を拒否・抑圧することは

自然に対する逆行だからだ。

 

あなたは素直に喜べるだろうか。

怒れるだろうか。

笑えるだろうか。

 

このための訓練は、

前提として低次元の感情から脱却すること、

日頃から感情にまつわる言葉を自由に使えるようにしておくこと、

(特にネガティブな見解にまつわる言葉の方)

天然の感情を認識したら機を逸することなく表現・伝達することだ。

 

〈感覚〉は非言語的なすべての情報に関するものだ。

 

なんとなく嫌な場所だ、

座り心地の良い椅子だ、

幸せそうな声の人だ、

 

というようなことだ。

 

これを鍛えるためには常に新鮮に現在と関わることだ。

 

今日の味覚はどうなのか。

今日の股間節の動きはどうなのか。

今日の脳内の静けさは、呼吸の深さはどうなのか。 

 

そもそも、あなたの体調は毎日違う。

そのことに気付ける人もまた少ない。

 

感覚を養うには瞑想が必要だ。

瞑想して静かな状態を覚え、

そこに入ってきた非言語的情報・刺激を

自分の感性との相性で認識する。

 

あなたは何を美味しいと感じ、

何を詰まらないと思うのか。

 

そのためには自分の好き嫌いや印象を

日頃からはっきりと言語化しなくてはいけない。

 

ぼんやりさせたままにしておくと

感覚は際限なく鈍化する。

 

言語化は思考が担当する。

 

このように思考を発達させることで

感覚もまた発達していくという影響関係がある。

 

だからこそ述べたように

満遍なく自己を育てることが必要なのだ。

 

「思考なんて要らない、直観さえあれば」

などと考えないようにしよう。

それは自分の可能性を進んで捨てているようなものだ。

 

〈直観〉は思考と感情と感覚が合流して、

言語的な洞察を一瞬にして作り出す火花のようなものだ。

 

思考は脈絡に添って慎重に考える。

直観は突拍子もなく結論を出す。

 

ゆっくり論理を積み上げる思考が話を終えない内に

感覚の「好き」「嫌い」

感情の「嬉しい」「腹が立つ」

などが合流して、直観となる。

 

直観は言語的であるために、

人に行動力や確かさの感覚を与える。

 

(「そうだ、何々をしよう!」と言語で思いつくだろう。)

 

スピリチュアルや啓発の分野では

直観は大いに信奉されている。

 

が、それは間違いだ。

 

直観は、思考、感情、感覚と完全に同列のものであって、

「そう直観したからそれが答え」

などという保証は全然ない。

 

むしろ、関わり方が正しくないと、

かなりの高確率で直観は間違える。

 

では直観など信じてはいけないのか?

 

そうではない。

 

思考、感情、感覚と同等に重要視すべきだ。

 

例えば

思考のみを優先して、

「科学がこう説明した。だからそれ以外はあり得ない」

と断定するのは正しいだろうか。

 

感情のみを優先して

「私が傷ついたんだから、あの人は悪い人だ!」

と極論するのは正しいだろうか。

 

感覚のみを優先して

「気持ち良いんだからいつまでもこれでいいんだ」

と自分を甘やかすのは正しいだろうか。

  

直観に過大な価値を置かず、

他と同様に大切にしていこう。

 

直観を養う訓練としては、

「2秒で決める」というのが

一番有効ではないかと思う。

 

最初はレストランのメニューくらいのもので良いので、

2秒で決める。

そのように訓練していくと、

あらゆることに関して次第に直観を利用することが出来るようになる。

 

直観はあなたが選択して自覚的に利用するものであって

「・・・という直観が来たからそうした」

という受動的なものであってはならない。

 

あなたは直観の召使いではないはずだ。

 

最後に〈肉体〉だが、

以上の4つすなわち思考、感情、感覚、直観は

健全な肉体の上でしか機能しない。

 

機能しないどころか致命的に誤作動する。

 

あなたが不健康なら、まずは

他の何を置いても肉体の健全性を先に確保すべきだ。

 

スピリチュアルの志向性が高い人は

思考同様に肉体をかなり軽視する傾向があるので

注意してほしいと思う。

 

体の健全性に関しては、

左右対称性、

柔軟性、

運動能力などでチェックし、

言うまでもないことだが

不健全な食べ物を取らないこと、

不健全な衣服を着ないこと、

不健全な環境に身を置かないこと、

休息すること、

リラックスすること、

瞑想することが不可欠だ。

 

あなたの肉体と精神は神からの贈り物であり、

宇宙の宝だ。

 

しかしいまだ完全には開かれざる宝だ。

 

あなたを大切にし、あなたを活かすことは

そのまま宇宙と神に、良いエネルギーを還すことだ。

 

肉体と精神を充分活性化させれば愛に目覚める。

地球帰属意識も勿論そこに付随して芽生えるだろう。

 

 

 

名もなき星の民から地球人へのメッセージⅣ(15~19)

15.

 

 世界を良くする方法、というのは色々ある。

 

ただその「世界」というのは何を意味しているのか・・・

それによって目的も異なれば方法も異なる。

 

ごみを減らす、

紛争を減らす、

病気を減らす、

差別を減らす、

 

そういうのもあるし、

 

また

もっと便利な世界にする

もっと快適な世界にする

もっと自由な世界にする、

 

というのもある。

 

別に悪いことではないが、

地球人は地球人の保全のために努力している。

 

地球人の保全上必要だという理由で

環境保全の努力もしている。

 

ただ、それは必要であると同時に

それがすべてでもない。

 

これまでの記事で語ってきたように

愛と帰属の精神というものは

自己保身とは別口に存在する。

 

ただどうしてか、

「自己保全」と「愛」、

これが両立するのではなく

対立、矛盾してしまうのが、

地球人の限界だ。

 

僕が今日お伝えしようと思っていることは

脳の正しい使い方だ。

 

なぜなら脳の映写機が、世界だからだ。

 

脳内がネガティブなら現実はネガティブになる。

脳内がポジティブなら現実はポジティブになる。

 

私一人がネガティブだろうとポジティブだろうと

大した影響はないのでは?

 

と思うかもしれないが、

 

実際、大した影響はない。

 

同時にかなりの影響がある、

 

ということを知ってほしい。

 

例えばどうしようもないレベルのオーケストラがあるとする。

そこにベテランが一人、入る。

 

音楽が変わるだろうか?

 

まず変わらないだろう。

 

ベテランは苛々することだろう。

 

しかしその人がずっと参加し続けることで、

もしかしたら誰か一人が

「自分ももっと上手くなりたい」

と思うようになるかもしれない。

 

その人を見て他の誰かが

「私も負けていられない」

と思うかもしれない。

 

そしてまた別の一人が・・・と続いていく。

 

こういうことが奇跡のように

1か月で起きるかもしれない。

10年かかるかもしれない。

 

10年かかって良くなればまだ良いが、

10年かかっても、いまだにオーケストラは

下手糞かもしれない。

 

でもそれは誰がコントロールできることでもない。

 

これが

「一人が全体に影響を与える」

また同時に

「一人が全体に影響を与えられない」

というものだ。

 

普通のことだろう。

 

「私一人が良くなったって、世界は変わらない」

また逆に

「私一人が良くなれば、世界が良くなる」

という考えは、

スケールの大きさのために自然の感覚を見失っているということを

忘れてはいけない。

 

何事も小さく、あなたにとって想像が容易なスケールから

考えてみると良い。

 

そしてオーケストラに対する一人の影響を理解できたら

そのままの形で地球規模に広げていく。

 

人類というどうしようもない雑音集団に対して

美しい音を奏でられる人がどこまで影響できるのか・・・

 

それは後になってみないと分からない。

 

忘れてはいけないことは、

彼らにだって、いつ向上心を持つか、

いや永遠に向上心を持たずにいるか、

という選択の自由があるということだ。

 

もう一つの大切なことは、

自分は良い音を奏でたいから良い音を奏でているだけで

それは義務では全然ない、ということだ。

そうしたいからそうするだけだ。

 

そこもまた自由なわけだ。

 

「一人が正しい脳を持つと

正しい現実が作り出される、

その結果、何かが良くなるかもしれないし

良くならないかもしれないが、

自分が正しい脳を持ちたいなら、持てば良い」

 

という理屈を、理解して頂けただろうか。

 

・・・それで脳の話をしようと思っている。

  

正しい脳とは何だろう。

 

それは左右の両脳を連携させるということだ。

 

先に左脳と右脳について説明すると、

 

左脳は言語を扱う。

右脳は非言語(感覚)を扱う。

 

左脳は論理的に思考する。(「こうだからこうだ」)

右脳は感覚的に把握する。(「ピンと来た」)

 

左脳は過去と未来を扱う。(蓄えた金と減っていく金を考える)

右脳は現在を扱う。(今ほしければ今それを買う)

 

左脳は形あるものを見る。(その人の肩書きを見る)

右脳は形ないものを見る。(その人の印象を見る)

 

いくらでも挙げられるが

ほぼこのような感じだ。

 

そこでよく人間のタイプをして

左脳型と右脳型と言うが

実は本質的ではない。

 

「ある人はある種の事柄については左脳的で、

ある種の事柄については右脳的」

というのが実際だ。

 

 そして多くの人にとって

そのバランスはかなり悪い。

 

両輪のバランスが悪い車を想像してもらえば分かると思うが、

乗れた代物ではない。魂が。

 

そこで僕は近頃、

左右両脳の連携を強めるための個人指導をするようになっている。

 

16

 

僕の所に来る人たちには共通性がいくらかある。

 

・感受性が普通に比べてかなり発達している

・しかしその自覚がない

・言語能力が低い

・他人に誤解される、批判される

・創作の営みをしない

 

すべてではないが、当てはまることが多い。

 

これを脳の観点で説明すると

 

「発達した右脳に対して

左脳が退化していてバランスが悪すぎる」

 

ということになる。

 

問題を外側から見てみる。

 

まずはそもそも社会全体が

「見えないもの」を忌避する傾向にある。

しかし本来、人間は

見えないものと関わる感受性を持っている。

 

だから見えないものへの感受性を

いまなお宿している人は

その点では人として自然本来に近い。

 

逆に見えないものを忌避し、疑う人は

(社会の大半だが)

その点では人の自然本来からかけ離れている。

 

正しいか間違っているかで言えば、

反省しないといけないのは

見えないもののすべてを

「気のせい」「オカルト」「思いこみ」

と誤解する人々の方だ。

 

しかし実際には多勢に無勢で、

見えないものに思いを馳せたり、

実際に「見えたり」「聞こえたり」してしまうと、

変人の扱いだ。

 

それで感受性の豊かな人は

人生のかなり早い時期から

自分を隠し、自分を偽る、

という方便を身に付ける。

 

しかし人間は嘘を重ねるうちに

自分が嘘をついていることを忘れ、

嘘を現実だと思いこむ生き物だ。

 

だから感受性の豊かな人は

自分の感受性の豊かさを隠す内に、

感受性が豊かであることを忘れ、

「自分は普通の人です」

と言い出すようになる。

 

しかしそれは表層意識の声であって

魂の声ではない。

 

こうして潜在意識と表層意識の間に

埋めがたい矛盾が生まれ、

それが不幸や病気や孤独のもととなる。

 

これらの人は自分にも他人にも嘘をついている。

嘘をつくと必ず不幸な波動を吸い寄せる。

結果、これらの人は

一生懸命、本来の自分を殺して

社会の標準にすり寄ろうとしているのに、

なお誤解され、批判され、無視される。

夫婦関係が悪かったり、病気をしていたりする。

 

だから僕は感受性の豊かな人には常に

その持前の感受性を認め、活かすように言っている。

  

そしてそうしていく中で、

いまだに友達であろうと頑張っている、

無理して合わせている人たちから

さらに理解されなくなればいい。

 

あなたがそうやって正直になっていったあとで

本当の友達や伴侶が現れ、

あなたは自分を、人生ではじめて

そのまま受け入れられるようになる。

 

さて、こうした人たちは

述べてきたような理由で対人関係では

かなりトラブルや不安や緊張感を抱えている。

 

いつも誤解されるので、そして伝わらないので

自分から発言することが億劫になり、

言語表現能力がどんどん落ちていく。

 

結果、その人の言葉は滅多なことでは

他人に通じない水準にまで低下していることが見受けられる。

 

この症状として

 

・書き言葉を正しく書けない(常に口語的に書いてしまう)

・文章を作成できない(文法の欠如)

・指示語を多用する(内容を明示しないままの「あれ」「これ」「それ」)

・口癖が多い(だいたい間が持たない時に出る)

・安易に同意を求める(「ね」)

・「うまく言葉にできない」「分からないけど」を多用する

・小声でもごもご喋るまたは甲高い声で喋る(どちらも自信がないため)

・とことん喋らない

 

などのことが非常にしばしば見受けられる。

 

自分がどれくらい当てはまるかチェックしてほしい。

 

これがあまりにも当てはまるような段階では実は

「人々は私を理解してくれない」

ではなく

「あなたを理解できるはずの人でさえ、あなたを理解できない」

というふうになっている。

 

なぜなら「伝えるつもりのない言葉」を

あまりにも使い慣れてしまったからだ。

 

言語については、とにかく慎重を極めて

丁寧に使うべきだ。

そうすれば必ず改善する。

 

ここまでで5つの特徴のうちの4つを説明したので

改めて確認してほしい。

 

・感受性が普通に比べてかなり発達している

・しかしその自覚がない

・言語能力が低い

・他人に誤解される、批判される

・創作の営みをしない

 

これらのことは

同じ一つの理由によって存在している

連携した状態なのだ。

 

創作の営みに関しては後ほど述べる。

 

17.

 

脳の観点で言い換えると、

感受性の豊かさは右脳に基礎を置いている。

 

感受性が豊かであるということは

1を見て100を感じる、というようなことだ。

 

芸術的感性を持つ人は

そうでない人と決定的に違うことに、

夕日を見ただけで人生を洞察したり、

旋律を聴いて泣き崩れたりする。

 

これはつまり入力1にたいして

内面世界で出力100が生じるということだ。

 

これは才能と呼び得るものだが

これらの人の多く、いや

少なくとも僕の所に来る人の多くは

出力を再度、1まで削減する。

 

なぜかと言うと、

1から100を連想したら

「考えすぎた」

「神経質だ」

「(皮肉っぽく)ロマンチストだね」

「現実を見たら」

とあまりにもあなたは言われてきた。

 

だから1を見て1か、せいぜい10くらいまでしか

反応していない演技を無意識にする。

 

現実には、

百万の言葉が胸の内に湧き上がっているのに

言える言葉は「すごい」の三文字だけという具合だ。

 

この時、自分自身に対して

「-99」とか「-90」の働きをしているのだから

それが自分の魂にとってストレスにならない訳がない。

 

それで感受性の豊かな人は、

感受性の鈍い人たちが

1見て1感じる、つまり

自分に負荷を0かけている間に、

人知れず自分に負荷を99かけている訳で、

病気したり無暗に疲れやすかったり、

不幸の感覚を恒常的に味わったりする。

 

この文脈において、

感受性の豊かな人にとって、

自分に負荷をかけないあり方を見つけるということは

ほとんど死活問題だ。

 

ここに、左脳を正しく使用する、

という必要性が生まれる。

  

感受性の豊かな、そしてその豊かさによって

ストレスを自分自身に与えている人は、

心の領域にいわば在庫が過剰な状態になっている。

しかもそれはほとんど賞味期限切れだ。

 

あの時思ったけれど言わないままにしていることが

何十年分と溜まっている。

それは病気や不幸の巣となっている。

 

どうしたらその在庫を放出して

山積した過去を解消して、現在を生きられるようになるのか。

 

高度な芸術表現を除けば、

心の領域のすべてを言語化することによってのみ

それは可能になる。

 

言語化するということは

慣れないうちは途方もない努力を要する。

 

言語化するに当たって、

語彙の少なさや言葉使いの下手さは言い訳にしてはいけない。

 

幼児の言葉でも心に響けば人は泣く。

外国人の片言の言葉でも深く共感できることがある。

 

とにかく何であれ、言い訳はやめよう。

 

言語化という営みは、心という暗闇の世界に投げかける光だ。

その光によって心を知ることができる。

掃除することもできる。

その光のおかげで転んだりぶつかったりすることを避けられる。

 

言語化の力が弱い人は心に対して無知だ。

その無知もまた、自分を不幸にする元になっている。

 

このように、右脳と左脳の関係は

本来相互補完的なものだ。

 

右脳(感覚)の世界は無形であるため混沌としている。

左脳(言語)はそれを有形にし秩序を与える。

 

決して右脳が左脳より優れているのではない。

左脳が右脳より劣っているのではない。

 

この両方を連係させることを霊的という。

 

最後に残った

 

・創作の営みをしない

 

これの意味も、そろそろ何となくお分かり頂けるのではないだろうか。

 

無形を有形にするという営みは

たとえば心の中に聴こえた音を音楽化する、

心の目で見た風景を物語化する、

という形も取り得る。

 

しかしそれは想像できると思うが

言語化と同じかそれ以上に困難な営みだ。

 

だから、基本的に傾向として、

言語化能力の低い人は

創作能力も必然的に低い、

ということになる。

 

19.

 

ここまで書いてきて、僕はそれらの人を勿論批判しているのではない。

 

むしろその感受性は非常に素晴らしいものなのだから、

それを本来のサイズで活かすべきだ、

それはあなたを不幸から遠ざけ、幸せに近付ける、

ということをお伝えしたくて書いている。

 

僕から出来る手短なアドバイスは以下だ。

 

・感受性の豊かさをまず認め、大切にすること

・何かを創作すること

・自分の内面のすべてを言語化すること

・誤解と批難をする人を遠ざけること

(分からない人は放っておくという勇気を身に付けよう)

 

霊的に生きるということの実際は、

両脳的に生きることに宿る。

 

今回は脳の事柄について話しているが

本題はいつも地球帰属意識だということを忘れないでほしい。

 

地球帰属意識を持つことは容易ではないし、

またそれが絵空事であっては何の意味もない。

 

「なぜ地球のために、

地球が幸せであるように生きたいと思うのか?」

 

「それは自分が地球に人として生まれたことを

感謝しているからだ。」

 

「どうして人であることを感謝できるのか?」

 

「人はこれほどまでに自由で恵まれた存在だからだ。」

 

・・・これは理屈で頭に叩き込む「模範解答」ではない。

 

あなたが両脳的に生きる時、

あなたは心の深さと豊かさを初めて知る。

 

右脳が見た形のない夢に

左脳が形を与えることで

夢が叶っていくことを、

夢は叶っていくことを、

何度も何度も体験する。

 

そのたびに、あなたは自分の幸せと恵みの大きさに驚くことだろう。

 

こうしてはじめて自然と、とても自然と、

自分を作ってくれた、そして自分を存在させてくれる存在に

尽くしたい、恩に報いたい、と思うようになる。

 

両脳的になれば、自ずと生きる道が見える。

 

それは魂の歩むべき道だ。

 

両脳的な生き方を、始めよう。

 

名もなき星の民から地球人へのメッセージⅢ(10~14)

 

(7月16日加筆) 

10

 

 地球を良く出来る存在は人間しかいない。

それは同時に、地球を悪く出来る存在も人間しかいない、

ということ。

 

確かに、地球人類を束縛に留めている第三者的存在はいる。

(その話はまたいずれ。

とりあえず、人間がすべてではないこと、

世界を方向付けている存在ははるかな昔からいる、

ということだけ知っておいて下さい。)

 

しかし彼らに原因があるとは言っているうちは

どこにも進めない。

 

それは子供が自分の未熟を親の責任にするのと同じで、

本質的ではない。

人生の主役は誰なのか、と考えれば、

この文脈では人類しか未来をどうにもできない。

 

人類は地球の在り様を左右できる存在として

まずその存在意義がある。

 

そこで自然と、人類は世界を良くする方法や悪くする方法を

模索するように、ある程度「プログラムされて」いる。

発想する内容は自由に近いが、

発想すること自体は決定されている。

それは遺伝子的なレベルのプログラムだ。

 

ただ現状では、世界を良くする方法に関しては

物質的には日々前進が見られるが、

精神的にはほとんど一歩も前進していない。

 

(一歩くらいは前進しているかもしれない。)

 

どういうことかと言うと、

より環境に優しいモノは作られ、流通するようになっている。

しかし

より環境に優しい心は、考案も共有もされていない。

どちらかといえば、環境に悪い心は

ますます発生、流通し続けている。

 

物質は見えても精神が見えない。

その理由は、人間が非常に狭い現実しか

いまだに見ることが出来ずにいるからだ。

 

たとえば僕は時々語るのだが、

「(その人が信じる)世界を良くすること」をしない人を非難する心、

というものがある。

たとえば政治参加のようなことだ。

 

このような時、人は例えて言うなら

地上1階以上のビルの建設を見守る立場にいる。

しかしその行為をしながら

地下1階以下の層に否定的攻撃的精神エネルギーを垂れ流している自覚がない。

 

一見世界は、少なくとも先進諸国は

豊かで満たされているように見える。

しかし精神的波動的には実はこの

「良いこと」に付随する汚染の方がはるかに問題になっていて、

地球全体に負の波動を広げる一因になっている。

 

たとえば我々は安易に捨てる服を買う。

その服は後進国の貧困者が作っていて、

彼らは安普請の工場が崩落した時、圧死した。

そのニュースを、彼らが作った服を着て、食事しながら見る。

 

こういうグロテスクな状況が世界を覆っている。

 

このように「見える現実」と「見えない現実」が乖離している。

それは人類が精神的波動的に

以前の記事で述べた言葉だと「情緒的に」

未熟だということを意味している。

 

(僕はだから東南アジア産その他を買ってはいけない

言っているのではない。

状況を無視してはいけないと言っている。)

 

いま自分が発している波動は、

触れている波動はいかなるものか。

それに熟知しない限り、人は自分を、自分たちを正しく保つことはできない。

 

それはつまり地球にふさわしい自分たちでいることもできないということだ。

 

11

 

では精神的波動的にはどのようにして「地球に良いこと」が出来るのか?

 

この問いの答えに、「祈りによって地球を良くする」

という方法論があり、これが僕の最も伝えたいこととなっている。

 

ただ祈りも全然人類社会には正しく理解されていないので

僕は出来ることならそれを教えたいと思う。

 

正しい祈りとは「感情体」の発するエネルギーではない。

 

感情体というのは、「肉」体が可視的なのに対して、

不可視の体だ。

 

それは何事も感情的に受け取り、

感情的に反応する。

 

それがいけない訳では全然ない。

ただし地球人類は感情体のコントロールが総じて未熟で、

振り回されてしまう。

 

そしてコントロールできていないという意味で

馬に乗るように刺激的で、

結果、生きている実感のようなものを得られる。

 

地球人類は映画などで泣きたがる。

それは感情体の振動を欲しているということだ。

 

知らずに泣いてしまう、怒ってしまう、

または安易にぬか喜びしてしまう、調子に乗る・・・

こういう現象は、感情体のコントロールが出来ていないことを意味する。

 

しかし残念ながら、

どんな悪人でも最後に悔悛すればホロリと来てしまうように

感情体は非常にしばしば判断を間違える。

だから精神的波動的に発達した存在は、

感情体にメインの働きは与えない。

 

だから同じ理由で、

感情体が発する祈りは感情体がメインの存在には響くのだが

感情体をコントロールできる存在には一切響かない。

 

つまり「あなたのために毎日祈っているよ!」

と言われたら、感情体が喜ぶため

人間はそれをエネルギーに変えることができる。

 

しかし地球は感情体をメインに置いていない存在なので

感情体に由来する祈りをどんなに与えられても

エネルギーには変換できない。

 

それはまるで欲しがっていないプレゼントをもらった時の

致しかたない冷やかさだ。

念のため言っておくと、

地球は人類の未熟を見下している訳ではない。

ただそういう経験はきっとあなたにも身に覚えがあるはずだから

そのように祈りということを考え直してみることを勧めたい。

 

この正しい観点で見直すと、地球人の

また日本人が昨今の震災被害などに寄せる「祈り」が

何の意味も備えていないことが分かるだろう。

 

それは人が喜ぶだけで自然世界には一切関係ない。

なぜなら自然世界は人間の一喜一憂で茂ったり枯れたりしない。

それはつまり、自然世界は感情体を重視していないということだ。

 

本当に自然世界、そして地球のことを思うなら

地球にとって有意義性のある祈りを届けないと意味がない。

 

このようなことのためにまずは

日々の瞑想や肉体と精神の健康性の維持が前提として不可欠で、

その上にはじめて「祈り」が正しく乗るようになる。

 

12

 

祈りについては僕はいろいろな時に形を変えて語っているが、

一番重要なのは

 

「祈りとはフルタイムの精神波長であって、

時間で区切られたアクションではない」

 

ということだ。

 

つまり存在自体が祈りになるということ。

 

物凄く難しい。

 

社会全体がその真逆に行っているからだ。

 

ただここで話を急に進めるが、

僕は今後、地球のために祈るという心を

希望者(で僕判断による有資格者)には伝えていきたいと思っている。

 

具体的にはヒーリングとは別種の

「イニシエーション」ということをアトリエにて行う。

これによって、受けた人には

地球と同調しやすいエネルギーが宿されることになり、

その人の存在自体が地球に貢献する波動を発するようになる。

(勿論あなたがしっかり自己管理を続けられた場合)

 

更新は1年。

僕はこれを希望者に年1回、施そうと思う。

僕自身のためにするのではなく、

相手のためにするのでもなく、

地球のためにする行いであるから、

無償で行う。

 

ただあなたも受ける際は、その心で受け、

個人的な話などはしないように。

 

その人は1年間は、無意識レベル、細胞レベルで

地球と関わってことになるから

強い希望や願いを持ち、

また恵みも大きいけれど精神的肉体的負荷も

人によっては恐らく大きくなるので、

自分の人生にそれだけのものを上乗せできる余裕や覚悟がない人は

少なくとも今は見送られると良いと思う。

 

一方、地球のために自分の一部でも捧げたいと思う人は

イニシエーションを受けてほしいと思う。

  

(ただ物事にはタイミングや縁があるので

僕の方で判断して

「もう少し待ちましょう」

と言うこともあるのでそこはご了承ください。)

 

有資格者、と書いたけれど

具体的には

・僕のヒーリングを半年以上受けている人、

・精神が比較的安定している人、

・その後、真面目に瞑想を続ける人

ということにする。

 

念のため、ホームページのリンク。

https://www.microcosmo-healing.com/

 

地球のため、と言葉で言い、可視的な営みで果たしていても

精神的波動的なレベルで実現できている人は実は

極めて少ない。

 

僕はある時までは、ヒーリングが自動的に

人にそのような在り方をもたらすと予想していたのだが、

実際にはそうではなかった。

 

これは考えが甘かった。

 

例えて言うなら、

プロになる、と決心してプロになる人はいても

趣味で練習を続けていたらプロになったという人は

(極めて例外的にしか)いない、

ということだ。

 

精神的に地球のために生きる、と決めて初めて

精神的に地球のために生きられるようになる。

 

自分のためを突き詰めていったら地球のためになった、

というのは少なくとも僕が伝えたい範疇にはない。

 

(勿論、そういうことが出来たら非常に嬉しいし望ましい。

しかし現実はそれほど甘くないという意味で。)

 

瞑想も同様で

「自分のための瞑想」の延長線上に

「地球のための祈り」はない。

 

だから「地球のための祈り」はまた別に教えないといけない。

 

ただこれは理屈ではないのと、

長い時間をかけて感覚の中に

落としこんでいかなくてはならないものなので

それはこのブログや僕の作る歌や物語を通して

なんとなくでも伝わっていったら嬉しい。

 

話は少し寄り道するが、

そういう観点で僕の音楽や絵や小説に触れてもらうと

頭ではなく心の深い層に響く何かが必ずある。

(これも興味のある人は問い合わせてください。)

 

大切なのは感覚が「その静けさ」「その深さ」に

次第に馴染んでいくことだ。

作家としてあまり積極的に言いたいことではないのだけれど、

僕の作品は鑑賞するものではなく、

そこから何かを学び取るものだと思って触れてもらえると、

ブログなどよりも何千倍も価値のあることをお伝えできるように作られている。

 

このブログのように本題に対してダイレクトに述べているものを

人は「情報」だと思いがちだが、

芸術作品や自然世界のあらゆることが伝える内容に比べれば

ほとんど頭にしか入ってこないものなのだということを

知っておいてほしいと思う。

 

13

 

僕のことを少し書く。

 

僕は「人のためではなく地球のため」でスタートした。

勿論、そのような使命で生まれたのだから

この目的意識は必然だった。

 

そして僕は最初は芸術によって

次にヒーリングによってそれを実現しようとしたのだけれど

まだこの心を妻以外の人には伝えられていない。

(2018年5月現在)

 

というのも一つには僕が自分のその可能性を

ずっと封じ込めてきたからだ。

 

「地球のため」は聞こえは良いが

「人のためより地球のため」は想定されるよりはるかに厳しい。

 

厳しいだけならまだ良いが「無益だ」と思われる。

 

人は辛くなると、

まず自分の不幸を嘆くものだ。

そんな時には地球云々は無益に思う。

僕も時にはそうなる。

 

僕は地球を愛するがゆえに

そうした言葉を聞くのが辛いので

「まずはあなたのために」と基本的に語るようになった。

 

誤解なきように言うと、

「あなたのために」益を為すことが悪いなどと言っているのではない。

ただあなたのために僕が出来ることはヒーリングだが、

地球のために出来ることはイニシエーションだと

分類するようになったというだけの話。

 

僕はこの数千年で数回、

地球の再生者として異星から地球に生まれてきているが

そのたびにイニシエーションをしてきたのだろうということを

先日おぼろげに推測した。

 

なぜかと言うと、

そのやり方が始めから分かっているからだ。

 

生まれるたびに地球の状況も課題も違うので

今回僕はどのようにしていくべきなのか

模索しているし、まだまだ模索が続きそうだ。

 

しかし今のところはまずイニシエーションによって

本来の営みに一歩近付きたいと考えている。

 

14 

今回の記事の最後は歌とする。

 

www.youtube.com

『テラへの祈り』kawabemasanori 

この星の心に 耳を澄ましてみて
生きている素晴らしさが 歌を歌っている

誰にも気付かれず 消えてゆく命は
優しさの風を受けて ふるさとに還る

もしも空が 寂しく見えたら
傷ついた心を 抱き締めている

命は生まれる この星の優しさを
闇空に見つけて 宇宙の彼方から旅して

どこにでも密かに 息づく喜びは 
愛という光の中 空を見上げている

忘れられた神の 恵みを語るため
雨のあと 揺れる花は 声を届けている

もしも鳥が 嘆いていたら
空に舞う涙を 癒している

命は生まれる この星を包むように
恵みを祝うため 宇宙の彼方から旅して

この星の心に 耳を澄ましてみて
生きている素晴らしさが 歌を歌っている

 

名もなき星の民から地球人へのメッセージⅡ(6~9)

(7月16日追記

 

初めての方は出来れば前の記事から読んで下さい。

地球上に生きる異星人から、地球人へのメッセージです。

 

 

今、世の中には沢山の教えや導きの言葉が満ち、

色々な生き方が多くの人に向かって開かれている。

 

時代は確実に以前とは変わって、物質至上主義ではなく

内面の充実や「結果やお金より大切なことがある」ことは

かなり普通に語られるようになってきた。

 

成功するための方法論や、

心の保ち方、肉体の健康法、

引き寄せなどのスピリチュアルな教えも増えている。

 

社会から「こう生きよ」と言われた通りに生きるのではなく

自分で「どう生きたいのか」と考えながら生きる人は

きっと以前よりずっと多くなっている。

 

勿論良い変化だけれど、

まだまだ意識が進化したと言える段階ではない。

残念ながら幼稚化している側面もある。

 

人の生き方はそれぞれだし、

まして「正しい生き方」なんてあり得ないし、

自分の思い描く規範を他人に押し付けるべきではない・・・

 

そういう考え方は、社会通念となっている。

 

でも僕は社会通念から遠い所にいる部外者として、

異邦人として、

人々と社会の考え方の誤りを指摘すべきなのだろうという思いがある。

同時に、面倒が嫌なので指摘したくないという思いがある。

でも考えを閉じ込めておくべきではないと

特に最近は強く感じながら過ごしている。

 

前回の記事で僕が自分の出自から語り出した理由は、

「自分は異星人として発言している」という立場を、

前提としなければならないと今では理解しているからだ。

 

自分は異星に出自を持つゆえに、

地球人類の間違った習慣や考え方に鼻が利く。

日本にまだ順応しきれていない外国人のように。

 

ただ、日本人と外国人では優劣も正誤もないが

地球人と(それなりに素性の確かな)異星人とでは

知っている「真理」の量が違う。

飲み込んでしまった「迷信」の量も違う。

 

それで

「そこがおかしいからそこを直せば今ある問題も解決する」

ということを身近な人には語ってきた。

 

はっきり先行きが見えた上で言っていることだから、

外れたことはない。

(*その人が助言を拒んだ場合は別。)

 

地球人類は、

地球人類社会でだけ通用する間違ったルールでがんじがらめになっている。

生命の本来自然の在り方を忘れ、

 「どう生きるのが本来自然で幸せなのか

(なぜなら本来自然であれば必ず幸せを実現する)」

 ということに関する発想の不自由さの中で、不幸せになっている。

 

そこで僕は「何が迷信で、何が真実なのか」ということを

時々語ることがある。

 

もっとも、話法として、

「同じ人間と人間」という関係でずっと語ってきた。

 

僕自身も肉体としては地球人類の子として生まれた訳だから、

ある年齢までは確かに地球人類社会のルールに染まって

文字通り洗脳されていた。

 

それを徐々に自分の力で解いていった結果が今なので、

「僕も以前そうだったけれど」

と人に言えることはいくらでもある。

 

でもそういう語り口では不足だと、運命が言っている。

詩的な表現と思われるかもしれないけれど、

実際的で物理的に近い話をしている。

 

「僕が」良いと思うかどうかじゃなくて

「運命が」良いと思うかどうか。

それが大切であり、いやそれだけが大切だというのもまた

この宇宙に生きる上でのさだめのようなものだ。

 

こういう考え方も、地球人類社会ではあまり聞かない。

 

代わりに、

「自分が良いと思うかどうかが一番大切」

という言葉をよく聞く。

 

それは凄く、真実と誤解されている言葉、

真実に錯覚される、未熟な見解だ。

 

なぜなら「自分が良いと思うか」云々は

「繋がり」という観点を持っていないからだ。

 

自分の価値基準に固執し、それをあくまで肯定しようとする人は

大いなるものや見えないものとの繋がりが切れている。

地球上ではそのような生き方も時として輝かしく錯覚されるが、

宇宙的には孤立して空しい。

「自分の考えを曲げさせないぞ」という、

とても痛い波動を発している。

 

僕は人を見て、

「恐らくこの人は僕と同じように異星から来たのだろう」

と思うことがある。

 

でも僕が見てきた限りでは、

やはり過去の僕と同じく出自を忘れ、

地球人類社会に順応し、その結果、

宇宙の光を宿してはいるけれど、完全な純度ではない・・・

そう思うことが多い。

 

僕自身、そこから抜け出して本当の自分に戻るのに要った

苦労と努力と幸運の程を思うと、

彼らが残念なのではなく

むしろ自分がとても例外的なのだと感じざるを得ないし、

だから目覚めきった者として

自分の持ち場のことはしっかりやり切りたいと思ってもいる。

 

誤解なきように言うと、

純度が完全でないといけないという訳ではないし

そんな彼らがいけないということでもない。

 

たとえば異星から来た歌手がいる。

そういう人は独特の声紋を持っていて、

地球人の「歌が上手い人」とは全然違うヒーリングの波動を発している。

  

こういう人は勿論、使命を持って生まれてきた。

でもその人の使命は歌手であって、

専業のヒーラーや祈り人ではない。

 

異星人の使命は大別すれば

「世に染まってその中で貢献するもの」と

「隠者となって陰から貢献するもの」

の二つに分かれる。

 

僕は後者だ。

 

前者の人は完全に自分の出自を思い出したら

(歌手なら)たぶん音楽活動が出来なくなる。

なぜなら出自を思い出した異星人はその繊細な性質上、

打たれ弱くなるからだ。

 

地球と地球人類に関与する異星人にとって、

自分の持ち場は先天的に決まっている。

正しく言うと、転生前に自分で決定している。

 

これを先程、僕は「運命」と言った。

 

僕は自分のヒーリング能力が最盛期だった頃、

なぜこれほど力があるのに有名にならないのか

お金があって困るほどにならないのか

不思議だったし、周りの人たちも不思議がった。

でもそれは定めだったからそのようになった訳で、

他はあり得なかった。

 

話を戻すと、このブログに書いているような事柄に関して、

「ものを言うのは充分有名になってからで良い」

「異星人というオカルトなレッテルを貼らずに

あくまで自分の考えとして述べたい」

など、僕にも自分の好む条件や成り行きがあったけれど

 運命は別のことを要求している以上、

その通りに流れる、ということを今はしている。

 

 

つまらない話だけれど、

僕がこのように長々と前置きをする理由は

「偉そうな」と思われることが凄く嫌だからだ、

ということを白状しておく。

 

でも自分は答えを知ってしまっている。

すると「自分一人が正しいことを知っているかのように」

と非難されることを、やはりまた凄く嫌だと感じる。

 

僕は散々、そのようなことを言われてきた。

これは愚痴ではなく、ただの事実。

 

実際には僕は例えば数学の先生のようなものだと思っている。

答えや答え方や法則性を知っているだけで

誰のことを見下している訳でも、

間違いを嘲笑おうとしているのでもない。

 

事が数学なら、生徒は

自分が間違えて先生が答えを明らかにしても、

「先生は偉そうだ」

「いつもこちらが間違っていると言う」

「自分だけが正しいことを知っていると自惚れている」

とは言わないだろう。

 

でも「生き方」となると、そうは行かない。

 

はじめは教えの新鮮さに目を輝かせ、

それに従うことで心も体も軽くなることを実感する。

しかし何事にも快と不快を分ける一線があり、

ある時点で自己の修正を億劫に感じ始めると、人は

「色々な生き方があると思います」

と言って殻に閉じこもる。

 

僕はそのような人を追ったり

説得したりということはしない。

僕のしたいことではないので。

 

地球人類は、生き方に関しては

様々な辿り方と答えがあると信じてやまない。

 

それはほとんど神聖不可侵の価値観だ。

 

僕はその「人生色々」こそ

人々を不幸にしている元だと考える。

 

なぜなら「正しい生き方」から目を背ける言い訳として

語られるのが、その言葉だからだ。

 

しかし色々な生き方があって良いなら

こんなに不幸な人や事が多いはずはない。

つまり、色々な生き方を「幻想する」内に

本来自然の、基礎的で根源的で普遍的な生き方を忘れたのだ。

 

本来自然の生き方は楽しく美しく彩りに満ちている。

本来自然の生き方をしていないから

焦りと不安に駆られ、困難に付きまとわれるのだ。

 

「自分の自由な選択で生きていけると思い違えているだけで、

実際には本来の道からコースアウトしているだけなのではないか?」

 

そんなことをまずは一人一人が見直していけたら良いと僕は考える。

 

「人生に答えはない」

という社会通念は、地球人類の不幸の元凶になっていて、

もし本当にそうなら確かに誰の意見も正解ではない。

でも数学の教師は

自分の知る答えを答えだと明言しない生き方を

わざわざしたくはないだろう。

 

僕もまた、

「76億分の1の人生観の一つ」として

自分の考えを語りたいとは思わない。

 

「偉そうな」とはいまだに思われたくないが、

「偉そうな」と思われるようなことを言わなければ

僕自身も結局は生きていて空しい。

 

以上が僕の立場やそれにまつわる葛藤で、

これを先に述べておくことでこれ以降の言葉が

少しでも伝わり易くなればと望んでいる。

 

 

地球人類のものの考え方は何千年の昔より

大幅に摂理から外れてしまっている。

昨日今日、道を誤った訳ではない。

 

摂理というのは例えば

「風が吹くと雲が動く」とか

「日が当たると影が出来る」とか

「生まれると死ぬ」とか

そういうもので、誰にもどうしようもないことだ。

 

どんな生き物も、いや生き物だけでなくすべての存在は

摂理の範囲内にいる。

はみ出すと死ぬか消滅してしまう。

 

でも摂理の中である程度自由にできる力がつくと、

摂理が存在することを忘れてしまう。

 

例えば現在なら人は、

死ぬはずの人を管に繋いで生かしておくことが出来るし、

生まれないはずの子を人工的に生ませることが出来るし、

孤独なのに嘘をついて人と楽しく演技することも出来る。

 

つまり摂理という真実ではなく

見たいように加工し改竄した現実を見ることが出来る。

 

でもそれは自然の成り行きに背いているから

いつも歪んだ苦しい波動を発している。

 

そこに行ったら幸せになれるはずがないのにそこに留まり、

その必然の結果の不幸せを恨み、

幸せになるための努力をがむしゃらにして

人を不幸せを代償にしてまで願いを叶えようとする、

しかもその夢見た幸せは無菌室で見た絵空事に過ぎず、

叶えたあとで空しさに包まれる・・・

 

そんなことに一生を費やしたりする。

 

本当の幸せは、言葉でとても言い表せるものではないが

 

「生きていること」 

「繋がっていること」 

「感じられること」

 

などだと思う。

 

でもそういうことが当たり前としか思われないほど

「繁栄した」世界では、

幸せはもっと別の形を取る。

 

恋愛をすることや

有名になることや

お金を稼ぐことや

望み通りのものを得ることや

他人を見返し、他人から見上げられることが

幸せになる。

 

こういう「幸せ」は間違った教えに洗脳された意識によってのみ願望され、

目覚めた意識にとっては空しさ以外の何物でもない。

 

 

意識が退化し混濁した状態では

人は一生涯、燃えるような瞳で追い回すことになる。

 

でも叶えれば叶えたでその都度空しくなるので、

死ぬまで叶えなくてはいけなくなる。

 

一方、この空しさを理解できた人は

もっと別のことを考えるようになる。

 

「何のために生まれてきたのだろう」

「何をしたら生きていると言えるだろう」

といったことを考える。

 

その後いろいろ一進一退や紆余曲折はあるだろうけれど

最終的には必ず同じ答えに行き着く。

 

「伸び伸びと、自分の個性のままに

好きなことをしながら貢献するために生まれてきた」

 

と理解することになる。

 

そして気付けばそれは実際に叶う。

 

伸び伸びと自分の個性のままに

好きなことをしていると、

それが自然と貢献になり、

 

また逆に、

 

貢献すると、それが自然と、

伸び伸びと自分の個性のままに

好きなことをして生きることに繋がる。

 

逆にこれ以外の方法では

「自分の個性を実現して好きなように生きる」ことも

「貢献すること」も、どちらもできない。

 

でも僕が知っている限りでは、

この2つのことは常にばらばらに

つまり別問題のこととして語られている。

 

自己実現」コースの人は自分のことに夢中になりすぎる。

「貢献」コースの人は他人のことに夢中になりすぎる。

 

結果、どちらもそれぞれ自分で設定した目的は叶えたとしても

幸せにはなっていない。

(実際には方法が間違っているから叶えるまでには達しない。

永遠にゴールに向かって歩き続ける。)

 

・・・本当の幸せはどのようにして判別するものなのだろう。

 

幸せはしばしば誤解されている。

幸せは「これが叶ったら幸せ」というものではない。

 

恋人に出会えたら幸せになれると考える人は

恋人に出会っても幸せにはならないし、

お金があれば幸せになれると考える人は、

巨万の富を築いても幸せにはならない。

 

幸せな人は、恋人がいない内から

幸せを実感しようと日々努力している。

お金がない内から、幸せを実感しようと努力している。

 

なぜ「努力する」のかと言うと、

世の中の幸せにまつわる価値観の逆を

意識的に進もうとしているからだ。

 

意志の力がなければ出来ない。

 

地球と宇宙はこれ以上与えられないものを

あなたにすでに与えている。

 

命と心だ。

 

生きていることの素晴らしさ、

見たり聴いたり歌ったりできることの幸せを

毎日しっかりと「感じようとしたら」自然と分かる。

すでに与え尽くしてくれているということが。

もうこれ以上与えられるものは残っていないということが。

 

それに比べるとお金や恋人や健康や住居や仕事や面子などは

はるかに矮小なもので、

要求するのも恥ずかしいと自然と分かることと思う。

 

でも実際には、

「そういうものを積極的に宇宙にオーダーすべき」

「それを叶えてくれるのが宇宙」

「願いが叶うことが幸せ」

といういわゆる引き寄せ論が人の心を捉えていて、

ここを僕は冒頭に述べた「幼稚化」と見る。

 

小さな願いは天に任せ、いっそ忘れ、

宇宙の大きさに思いを馳せたら

生きている素晴らしさもやがて明らかに感じられるようになると思う。

 

 

僕の 『幸せを作る12の習慣』を知っている人のために

念のため説明しておくと、

僕が伝えたい「幸せ」の本命は

「地球帰属意識前回の記事の(4))」であり、

その基礎となる精神の健全性を保つための方法論として

『12の習慣』を位置付けている。

 

僕のここまでの言葉を読んで、もしかしたら

「自分の幸せなんて望むものではない」

と思われたかもしれないけれど、そうではない。

 

命と心をまっとうすることは、

この上もなく幸せなことだ、と改めて伝えたい。

 

でも

 

「自分の願いが叶うと幸せになる」

「自分の幸せを叶えることに価値がある」

 

そういう浅はかな幸福論は間違っている、という話。

 

実際、願いが叶ったのに不幸せな人はいくらでもいる。

 

前回の記事(5)にも書いたように

それよりももっと先に見詰め直すべきことは

地球と自分との母子関係であって、

母に愛と感謝を持ち、

また義務ではなく、自然な感情の発露として

「母を喜ばせたい」という気持ちを

人生の中心に据えることが大切だ。

 

母を喜ばせるということは

「この子を生んで良かった。育てて良かった」

と母が自然と思えるような、子としての生き方をすること。

 

つまり裏を返せば

「生んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう」

の気持ちをどれだけ持てるか、ということ。

 

でも実際どうだろうか。

 

多くの人は人生を作業や忍耐や気晴らしの連続と考え、

生きている幸せより、欠乏の不安に頭を取られ、

「自分が」幸せになることばかりを考えているのではないだろうか。

 

与えられたものの価値を正しく認識できず

母との繋がりも忘れてしまい、

そのような在り方では幸せになれるはずもないのに

「なぜ幸せになれないのか」と嘆いたり恨んだりする。

 

人はエゴ由来の幸せをどれだけ望んでも幸せにはなれず

地球という母との繋がりを大切に感じられるようになって初めて、

幸せに生きられるようになる。

 

「自分の幸せは自分で作る」

これは地球人の常識だが宇宙的には未熟な発想だ。

 

僕は異星人としてこの真理を伝えたい。

 

「星(=地球)との繋がりの自覚だけが真実の幸せを作る」

 

あなたも目先の幸せ不幸せから一旦目を離して、

「地球という母から生まれ、今日も生かされている」ことを、

心を集中して、イメージを頭の中に描き出してみてほしい。

 

日々色々嫌なことや苦しいことがあり、

地球などという大きくて遠いもののことなど考えられないし

考えたくもないと思うこともあるとは思う。

でも下り坂を為すに任せてずるずると落ちていくのではなく、

自分の意志の力で、愛と喜びに目を凝らしてみてほしい。

 

あなたが地球という母に心からの感謝を感じられるようになった時、

あなたは必ず本当の幸せを実感できるようになっている。

 

名もなき星の民から地球人へのメッセージⅠ(1~5)

(*7月16日加筆) 

 

 

2007年9月、僕は突然ヒーリング能力に目覚めた。

やってきたことを振り返ると、自慢ではなく

並みのヒーリング能力ではなかった。

 

 (今はその当時よりは遥かに控えめな、

でももっと価値のあるヒーリングをしている。)

 

そしてヒーリング能力の目覚めと共に

「メッセージ」を受け取るようになった。

 

自分の内側から語りかけてくる、

自分の知らないことを知っている何者かの存在。

初めての体験だった。

 

数年後、僕は自分の

「本当の名前」

「宇宙人としての名前」

を明かされる夢を見た。

 

また数年後、僕は母に

「実はお父さんの子ではないんだよ」

と教えられる夢を見た。

これは浮気した云々という意味ではなくて、

それまでの成り行きから、

自分の父は異星人だったのだと理解できた。

そういうふうに生まれてくる異星人が時々いることを

その頃には話に聞いて知っていた。

 

それからツインソウルの片割れに出会った。

今は彼女と暮らしている。

 

この60億いる人間の中で

ツインソウルと出会い、互いに認識するということは

本当に奇跡的なことだ。

 

(*情報がいつの段階で止まっていたのか・・・

2018年現在76億人だそうです。)

 

ヒーリングもそうだし、ツインソウルとの出会いもそう。

奇跡を体験すればするほど、

この世界がどんなにか奇跡で成り立っているか

ということが分かる。

 

鳥の声、朝の光、植物の緑、大好きな音楽。

日常を満たしているすべてのことが

当たり前なんかでは全然なく

奇跡なんだと感じられる。

 

広大な宇宙の中に、星の子として生きている、

という自覚は毎日のように育まれ、

毎日のように確かなものになっていっている。

 

 

いきなり以上のような自己紹介をしたものの

僕は元々あまり現実離れしたことが好きではなく

得意でもなかった。

 

ヒーリング能力に目覚めるまで

ヒーリングというものを信じられなかった。 

メッセージを受信するようになるまで、

チャネリングというものを信じられなかった。

 

そういうものを胡散臭く思っていた。

 

ツインソウルというものを疑っていた。

異星人のことも、異星人の転生なんて話も、疑っていた。

 

自分がそういう現実や考え方を受け入れていくのには

とても時間がかかった。

 

でもどうしてもこれらのことを理解し、

受け入れざるを得ない現実の連続だった。

 

そして時間をかけたからこそ

深く正しく理解できるようになった。

 

だから今度は、人に伝えるべき時なのだと思う。

 

僕は自分が生まれてきた目的も次第に理解するようになった。

 

地球に益を為すために、

地球の呼び声に応える形で

僕は地球人として生まれてきた。

 

僕の元いた星は知られていない。

ウェブサイトや本でよく目に留まるような異星人の星ではない。

 

名の知れた星の人々である彼らとは、僕は折り合いが悪い。

というか僕が一方的に違和感を覚えている。

考え方がかなり違うからだ。

 

どういう考え方なのか、 ということは

この先を読み進めていってもらえればと思う。

 

僕はまだ今のところ、同じ故郷の同胞を見つけていない。

つまり、同じことを言っている人にはまだ出会えていない。

 

後ほど述べるように、同じ発達段階の意識同士は同じ思想を持つので

その意味でツインソウルの片割れである妻とは

同じ考えを共有しているけれど、それはまた別の話だ。

 

基本的に、どの星出身であれ、

善意の異星人は地球と地球人に貢献するために

登場したり、教えを垂れたり、転生したりする。

(勿論、地球生まれの地球人で、地球と地球人に貢献する人もいる。)

 

僕は地球という「生き物」に対して、

地球が必要とする波形のエネルギーを伝達するために

生まれてきた。

 

ついでに、地球人類にも何か伝えられることがあるようなら

伝えようとしている。

 

 

地球は生き物として、新陳代謝や変化を続けている。

その大きな流れの中で、人類も同調して変化してきた。

 

人間は人間だけの力で歴史を開いてきたかのように誤解されているけれど

季節の中の樹木や、海流の中の魚と違いはなく、

自分で何もかも決めてきたわけでは全然ない。 

 

さしずめ、流れに流されながら

水を支配したように思い違えている川魚のようなものだ。

 

何もかも言語化できる訳ではない心の世界で

僕が地球から聞き取っていることは

 

「変わりたい。良くなりたい」

 

という思いであって、

言葉にしてみると漠然としている。 

 

どう変わりたいのだろう。

良くなるために何をするつもりなのだろう。

 

何も決まっているわけではない。

僕たちひとりひとりがそうあるように、

状況を見ながらの出たとこ勝負なのだろうと僕は想像する。

 

ただ、いま見える範囲での「より良い場所」に行きたいらしいことは確かだ。

(それを人はアセンションと言ったりもする。)

そのためにその時々の局面で少しでも良い選択ができるように

自分の思いを汲んでくれる援助者を地球は必要としているので、

僕や僕のような人はそれに応えて地球に生まれる。

 

誤解なきように言っておくと、

地球は生き永らえなければならないわけではない。

人類は存続しなければいけないわけではない。

環境は保全されなければならないわけではない。

 

すべての「こうあらねば」は

人間が自分の脳味噌で考えられる限界の下にあって、

しかもすべては人間中心の良い先行きだ。

 

人類が滅びて地球が幸せになるならそれが一つの結果だし、

人類に滅ぼされて地球が壊れるならそれも一つの結果だし、

「こうあらねばならない」理想の結果は

エゴの産物でしかない。

 

だからと言って、

流れに任せて滅びに向かって好きにやればいいというわけでもない。

 

だったらどうしたら良いというのか、と思うかもしれない。

この平行線の議論を止めるためには

たった一つのことが分かりさえすればいい。

 

地球という母親に養われている人類が

地球を滅ぼしてよいものだろうか。

 

同時に、

 

自分たちの永続のために

地球を「管理」するような真似をして良いものだろうか。

 

地球人は、地球と自分を

母と子の関係になぞらえて見る「情緒の発達」が遅れている。

 

多くの地球人が最近語り出した環境保全や持続可能性には

まだまだ愛の感覚が宿っていない。

自己保身のための管理運営の意識がこびりついている。

 

それで保全できるものも確かにある。

でも動機が自己「だけの」保身なら 

遠くない未来、地球はそんな利己的な子供たちのことは嫌うようになる。

環境を保全することに成功したにもかかわらず、

人類は滅びることになる。

そんなことだってあるだろう。

 

「地球を大切にすべきだ」

「環境と共存すべきだ」

「破壊や消費に制限をかけるべきだ」

 

と言えば、

 

「その根拠は」

「必要性は」

「それは非現実だ」

 

などと人々は言い出し、

数字を持ち出し、学説を述べ始め、

人間にも人間の都合がある、と最後には

いつもそこに立て篭もる傾向がある。

 

 

それは僕のような者の目から見れば、

母の苦しみを見て見ぬ振りし、

更に母に負担をかけながら

あくまでも自分のやりたいことを続ける子供のようなものだ。

 

つまりそれは情緒的に間違っている。

 

間違っているからやめなければいけないのであって、

人類の存続に関わるから云々は関係ない。

 

情緒的に考えれば当たり前に分かることが、

論理的にのみ考えようとするから分からなくなっている、

ということを、地球人には気付いてほしい。

 

 

僕は長い時間をかけて

「地球のために、地球の必要とする波形のエネルギーを伝達する」

ことを覚え、日々行うようになった。

 

それが僕の本業だ。

 

僕はさらにもう一つの仕事として

「地球帰属意識」を、声の届く人に伝えたいと思う。

 

意識には段階がある。

 

最も狭い意識は、いわゆる「エゴ意識」

すなわち自己だけを保全しようとする意識だ。

この意識では、誰とも繋がりを見出せず、孤独だ。

 

それが広がると「家族(血族)意識」になる。

少なくとも血を分けた人までは

「自分と繋がっている」と感じられるようになる。

 

それが更に広がると「同胞意識」になる。

血縁を超えて、何らかの形で関わる人々を

「自分と繋がっている」と感じられるようになる。

 

同胞意識は、少人数の仲間から

国家や宗教や民族の単位まで広がっていく。

それでもたとえば戦争がなくならない理由は

彼らに次なる意識「人類意識」に達していないからだ。

 

「人類意識」ではすべての人を同じ人類と感じられるようになる。

 

それでも人類意識だけでは生命世界と共存することは出来ない。

人類しか眼中にないからだ。

それでは、ありとあらゆる「資源」や環境や生命に対して

憐れみの心を持つことはできない。

 

「憐れみ」とは情緒の高尚な表れだ。

 

自分以外のものを思って、

その苦しみや願いを推測する能力を言う。

 

戦争が起きるのは、

同胞意識が他の異なる同胞意識とぶつかるからだと言った。

同じように、

環境破壊が起こるのは人類意識がその他の生物世界とぶつかるからだ。

 

しかし次なる意識の広がり「地球帰属意識」に到達すれば

人類だけのために自然が破壊され動植物が殺されて良いはずがないと分かる。

 

しかしそれでもまだ終わりではない。

「地球帰属意識」では外の星の人々と衝突することになる。

ゴミは宇宙に捨てて良いという理屈になる。

 

この先の広がりは、「宇宙意識」だ。

 

 

今、地球人類は最も程度の低い「エゴ意識」から

「同胞意識」までで概ね織り成されている。

それ以上の意識に到達している人はまだまだ少ない。

 

これは地球がまだ、

これらの低次元意識をかばっているということを意味する。

母親を思いやってくれない子を、

それでも母親が庇い愛するように。

 

しかし地球のもう一つの心は、

自分がいたわられ、感謝され

子と幸せな関係を結ぶことを望んでもいる。

 

地球がこれから人類との関わりをどうしていくのかということは

先程も言ったように決定されていない。

 

それは地球と人類の母子関係の成り行きによっている。

 

 

先程述べた階層のそれぞれに教え人や導き手や

ヒーラーやカウンセラーがいる。

地球へのエネルギー伝達という勤めと共に、

僕は「地球帰属意識」を教えるために、ここにいるかもしれない。

 

それは僕にとって定かではない。

なぜなら人が「地球帰属意識」を本当に学びたいのかどうか

分からないから。

 

「地球帰属意識」は、自分と地球の関係を子と母と捉え、

常に母を思いやること、感謝すること、

母が子の幸せを望んでいることを自覚すること、

自己の幸せが母への貢献と感謝になる、と自覚することだ。

 

勿論、自己の幸せとは

何でも好きにすれば良いという意味ではないし、

「世間並みの幸せ」が叶ったら幸せ、という幸せでもない。

 

人間社会は不幸だ。

「世間並みの幸せのカタチ」が、

大半の人の脳に刻印されているからだ。

 

生きているだけで幸せなのに、

結婚していないから、

お金がないから、

友達がいないから、

仕事に恵まれないから、

不幸せだと思い込む。

 

そのような誤った幻想の幸せを払拭し、

どうしたら本当の幸せを感じられるようになるのだろう。

 

誰もあなたを幸せには出来ない。

あなたが自分を正しく捉え直して初めて、あなたは幸せになる。

 

そのためには「尊い母から生まれた尊い子」という自意識が必要だ。

自分を蔑んではいけないし、

品位を保たなければいけない。

まして間違いだらけの世間と比較して

自分の不幸を指折り数えるべきではない。

 

なぜなら地球という母は、品位ある子を望んでいる。

それは母自身が、品位ある心の持ち主だからだ。

 

ここに僕は、「地球帰属意識」のために必要な心得を書いてみる。

 

1.自分のことを好きになる

2.品位と優しさを持つ

3.生きていることに感謝する

4.自分の内側に静けさを持つ

5.自分のことを「人間」ではなく「生き物」と自覚する 

6.自分らしさを常に追及する

7.地球のために祈る心を持つ

8.出来る範囲で地球への損害を減らす

 

人間の精神波長は非常に大きな影響力を環境に対して持っている。

 

自分を嫌いな人は「嫌い」というエネルギーの磁力源になり、

「嫌い」という砂鉄がそこに集合し、模様を描く。

 

それは地球にとっては、不快な呪符を肌の上に書かれるようなものだ。

 

自分を嫌い、蔑み、軽んじること、

自分に我慢を強い、自分を人生の脇役にすることは

その人は良いかもしれないが

地球にとっては非常な損害を与える行為になっている。

 

それでも人は

「だって私はこんなに悲しいのだから」

という自己弁護で

自分と地球との繋がりを絶ってしまう。

 

これを母は悲しむ。

 

あなたの幸せは、いつも地球という母が見ている。

あなたの幸せは、いつも地球という母の生きる力となる。

 

これは、そういう空想ではないし、

「そう思うことにする」でもない現実で、

僕が聞き取っている声でもある。

 

僕はこのようなことをこれからは時々伝えていくことにする。