名もなき星の民から地球人へのメッセージⅡ(6~9)

(7月16日追記

 

初めての方は出来れば前の記事から読んで下さい。

地球上に生きる異星人から、地球人へのメッセージです。

 

 

今、世の中には沢山の教えや導きの言葉が満ち、

色々な生き方が多くの人に向かって開かれている。

 

時代は確実に以前とは変わって、物質至上主義ではなく

内面の充実や「結果やお金より大切なことがある」ことは

かなり普通に語られるようになってきた。

 

成功するための方法論や、

心の保ち方、肉体の健康法、

引き寄せなどのスピリチュアルな教えも増えている。

 

社会から「こう生きよ」と言われた通りに生きるのではなく

自分で「どう生きたいのか」と考えながら生きる人は

きっと以前よりずっと多くなっている。

 

勿論良い変化だけれど、

まだまだ意識が進化したと言える段階ではない。

残念ながら幼稚化している側面もある。

 

人の生き方はそれぞれだし、

まして「正しい生き方」なんてあり得ないし、

自分の思い描く規範を他人に押し付けるべきではない・・・

 

そういう考え方は、社会通念となっている。

 

でも僕は社会通念から遠い所にいる部外者として、

異邦人として、

人々と社会の考え方の誤りを指摘すべきなのだろうという思いがある。

同時に、面倒が嫌なので指摘したくないという思いがある。

でも考えを閉じ込めておくべきではないと

特に最近は強く感じながら過ごしている。

 

前回の記事で僕が自分の出自から語り出した理由は、

「自分は異星人として発言している」という立場を、

前提としなければならないと今では理解しているからだ。

 

自分は異星に出自を持つゆえに、

地球人類の間違った習慣や考え方に鼻が利く。

日本にまだ順応しきれていない外国人のように。

 

ただ、日本人と外国人では優劣も正誤もないが

地球人と(それなりに素性の確かな)異星人とでは

知っている「真理」の量が違う。

飲み込んでしまった「迷信」の量も違う。

 

それで

「そこがおかしいからそこを直せば今ある問題も解決する」

ということを身近な人には語ってきた。

 

はっきり先行きが見えた上で言っていることだから、

外れたことはない。

(*その人が助言を拒んだ場合は別。)

 

地球人類は、

地球人類社会でだけ通用する間違ったルールでがんじがらめになっている。

生命の本来自然の在り方を忘れ、

 「どう生きるのが本来自然で幸せなのか

(なぜなら本来自然であれば必ず幸せを実現する)」

 ということに関する発想の不自由さの中で、不幸せになっている。

 

そこで僕は「何が迷信で、何が真実なのか」ということを

時々語ることがある。

 

もっとも、話法として、

「同じ人間と人間」という関係でずっと語ってきた。

 

僕自身も肉体としては地球人類の子として生まれた訳だから、

ある年齢までは確かに地球人類社会のルールに染まって

文字通り洗脳されていた。

 

それを徐々に自分の力で解いていった結果が今なので、

「僕も以前そうだったけれど」

と人に言えることはいくらでもある。

 

でもそういう語り口では不足だと、運命が言っている。

詩的な表現と思われるかもしれないけれど、

実際的で物理的に近い話をしている。

 

「僕が」良いと思うかどうかじゃなくて

「運命が」良いと思うかどうか。

それが大切であり、いやそれだけが大切だというのもまた

この宇宙に生きる上でのさだめのようなものだ。

 

こういう考え方も、地球人類社会ではあまり聞かない。

 

代わりに、

「自分が良いと思うかどうかが一番大切」

という言葉をよく聞く。

 

それは凄く、真実と誤解されている言葉、

真実に錯覚される、未熟な見解だ。

 

なぜなら「自分が良いと思うか」云々は

「繋がり」という観点を持っていないからだ。

 

自分の価値基準に固執し、それをあくまで肯定しようとする人は

大いなるものや見えないものとの繋がりが切れている。

地球上ではそのような生き方も時として輝かしく錯覚されるが、

宇宙的には孤立して空しい。

「自分の考えを曲げさせないぞ」という、

とても痛い波動を発している。

 

僕は人を見て、

「恐らくこの人は僕と同じように異星から来たのだろう」

と思うことがある。

 

でも僕が見てきた限りでは、

やはり過去の僕と同じく出自を忘れ、

地球人類社会に順応し、その結果、

宇宙の光を宿してはいるけれど、完全な純度ではない・・・

そう思うことが多い。

 

僕自身、そこから抜け出して本当の自分に戻るのに要った

苦労と努力と幸運の程を思うと、

彼らが残念なのではなく

むしろ自分がとても例外的なのだと感じざるを得ないし、

だから目覚めきった者として

自分の持ち場のことはしっかりやり切りたいと思ってもいる。

 

誤解なきように言うと、

純度が完全でないといけないという訳ではないし

そんな彼らがいけないということでもない。

 

たとえば異星から来た歌手がいる。

そういう人は独特の声紋を持っていて、

地球人の「歌が上手い人」とは全然違うヒーリングの波動を発している。

  

こういう人は勿論、使命を持って生まれてきた。

でもその人の使命は歌手であって、

専業のヒーラーや祈り人ではない。

 

異星人の使命は大別すれば

「世に染まってその中で貢献するもの」と

「隠者となって陰から貢献するもの」

の二つに分かれる。

 

僕は後者だ。

 

前者の人は完全に自分の出自を思い出したら

(歌手なら)たぶん音楽活動が出来なくなる。

なぜなら出自を思い出した異星人はその繊細な性質上、

打たれ弱くなるからだ。

 

地球と地球人類に関与する異星人にとって、

自分の持ち場は先天的に決まっている。

正しく言うと、転生前に自分で決定している。

 

これを先程、僕は「運命」と言った。

 

僕は自分のヒーリング能力が最盛期だった頃、

なぜこれほど力があるのに有名にならないのか

お金があって困るほどにならないのか

不思議だったし、周りの人たちも不思議がった。

でもそれは定めだったからそのようになった訳で、

他はあり得なかった。

 

話を戻すと、このブログに書いているような事柄に関して、

「ものを言うのは充分有名になってからで良い」

「異星人というオカルトなレッテルを貼らずに

あくまで自分の考えとして述べたい」

など、僕にも自分の好む条件や成り行きがあったけれど

 運命は別のことを要求している以上、

その通りに流れる、ということを今はしている。

 

 

つまらない話だけれど、

僕がこのように長々と前置きをする理由は

「偉そうな」と思われることが凄く嫌だからだ、

ということを白状しておく。

 

でも自分は答えを知ってしまっている。

すると「自分一人が正しいことを知っているかのように」

と非難されることを、やはりまた凄く嫌だと感じる。

 

僕は散々、そのようなことを言われてきた。

これは愚痴ではなく、ただの事実。

 

実際には僕は例えば数学の先生のようなものだと思っている。

答えや答え方や法則性を知っているだけで

誰のことを見下している訳でも、

間違いを嘲笑おうとしているのでもない。

 

事が数学なら、生徒は

自分が間違えて先生が答えを明らかにしても、

「先生は偉そうだ」

「いつもこちらが間違っていると言う」

「自分だけが正しいことを知っていると自惚れている」

とは言わないだろう。

 

でも「生き方」となると、そうは行かない。

 

はじめは教えの新鮮さに目を輝かせ、

それに従うことで心も体も軽くなることを実感する。

しかし何事にも快と不快を分ける一線があり、

ある時点で自己の修正を億劫に感じ始めると、人は

「色々な生き方があると思います」

と言って殻に閉じこもる。

 

僕はそのような人を追ったり

説得したりということはしない。

僕のしたいことではないので。

 

地球人類は、生き方に関しては

様々な辿り方と答えがあると信じてやまない。

 

それはほとんど神聖不可侵の価値観だ。

 

僕はその「人生色々」こそ

人々を不幸にしている元だと考える。

 

なぜなら「正しい生き方」から目を背ける言い訳として

語られるのが、その言葉だからだ。

 

しかし色々な生き方があって良いなら

こんなに不幸な人や事が多いはずはない。

つまり、色々な生き方を「幻想する」内に

本来自然の、基礎的で根源的で普遍的な生き方を忘れたのだ。

 

本来自然の生き方は楽しく美しく彩りに満ちている。

本来自然の生き方をしていないから

焦りと不安に駆られ、困難に付きまとわれるのだ。

 

「自分の自由な選択で生きていけると思い違えているだけで、

実際には本来の道からコースアウトしているだけなのではないか?」

 

そんなことをまずは一人一人が見直していけたら良いと僕は考える。

 

「人生に答えはない」

という社会通念は、地球人類の不幸の元凶になっていて、

もし本当にそうなら確かに誰の意見も正解ではない。

でも数学の教師は

自分の知る答えを答えだと明言しない生き方を

わざわざしたくはないだろう。

 

僕もまた、

「76億分の1の人生観の一つ」として

自分の考えを語りたいとは思わない。

 

「偉そうな」とはいまだに思われたくないが、

「偉そうな」と思われるようなことを言わなければ

僕自身も結局は生きていて空しい。

 

以上が僕の立場やそれにまつわる葛藤で、

これを先に述べておくことでこれ以降の言葉が

少しでも伝わり易くなればと望んでいる。

 

 

地球人類のものの考え方は何千年の昔より

大幅に摂理から外れてしまっている。

昨日今日、道を誤った訳ではない。

 

摂理というのは例えば

「風が吹くと雲が動く」とか

「日が当たると影が出来る」とか

「生まれると死ぬ」とか

そういうもので、誰にもどうしようもないことだ。

 

どんな生き物も、いや生き物だけでなくすべての存在は

摂理の範囲内にいる。

はみ出すと死ぬか消滅してしまう。

 

でも摂理の中である程度自由にできる力がつくと、

摂理が存在することを忘れてしまう。

 

例えば現在なら人は、

死ぬはずの人を管に繋いで生かしておくことが出来るし、

生まれないはずの子を人工的に生ませることが出来るし、

孤独なのに嘘をついて人と楽しく演技することも出来る。

 

つまり摂理という真実ではなく

見たいように加工し改竄した現実を見ることが出来る。

 

でもそれは自然の成り行きに背いているから

いつも歪んだ苦しい波動を発している。

 

そこに行ったら幸せになれるはずがないのにそこに留まり、

その必然の結果の不幸せを恨み、

幸せになるための努力をがむしゃらにして

人を不幸せを代償にしてまで願いを叶えようとする、

しかもその夢見た幸せは無菌室で見た絵空事に過ぎず、

叶えたあとで空しさに包まれる・・・

 

そんなことに一生を費やしたりする。

 

本当の幸せは、言葉でとても言い表せるものではないが

 

「生きていること」 

「繋がっていること」 

「感じられること」

 

などだと思う。

 

でもそういうことが当たり前としか思われないほど

「繁栄した」世界では、

幸せはもっと別の形を取る。

 

恋愛をすることや

有名になることや

お金を稼ぐことや

望み通りのものを得ることや

他人を見返し、他人から見上げられることが

幸せになる。

 

こういう「幸せ」は間違った教えに洗脳された意識によってのみ願望され、

目覚めた意識にとっては空しさ以外の何物でもない。

 

 

意識が退化し混濁した状態では

人は一生涯、燃えるような瞳で追い回すことになる。

 

でも叶えれば叶えたでその都度空しくなるので、

死ぬまで叶えなくてはいけなくなる。

 

一方、この空しさを理解できた人は

もっと別のことを考えるようになる。

 

「何のために生まれてきたのだろう」

「何をしたら生きていると言えるだろう」

といったことを考える。

 

その後いろいろ一進一退や紆余曲折はあるだろうけれど

最終的には必ず同じ答えに行き着く。

 

「伸び伸びと、自分の個性のままに

好きなことをしながら貢献するために生まれてきた」

 

と理解することになる。

 

そして気付けばそれは実際に叶う。

 

伸び伸びと自分の個性のままに

好きなことをしていると、

それが自然と貢献になり、

 

また逆に、

 

貢献すると、それが自然と、

伸び伸びと自分の個性のままに

好きなことをして生きることに繋がる。

 

逆にこれ以外の方法では

「自分の個性を実現して好きなように生きる」ことも

「貢献すること」も、どちらもできない。

 

でも僕が知っている限りでは、

この2つのことは常にばらばらに

つまり別問題のこととして語られている。

 

自己実現」コースの人は自分のことに夢中になりすぎる。

「貢献」コースの人は他人のことに夢中になりすぎる。

 

結果、どちらもそれぞれ自分で設定した目的は叶えたとしても

幸せにはなっていない。

(実際には方法が間違っているから叶えるまでには達しない。

永遠にゴールに向かって歩き続ける。)

 

・・・本当の幸せはどのようにして判別するものなのだろう。

 

幸せはしばしば誤解されている。

幸せは「これが叶ったら幸せ」というものではない。

 

恋人に出会えたら幸せになれると考える人は

恋人に出会っても幸せにはならないし、

お金があれば幸せになれると考える人は、

巨万の富を築いても幸せにはならない。

 

幸せな人は、恋人がいない内から

幸せを実感しようと日々努力している。

お金がない内から、幸せを実感しようと努力している。

 

なぜ「努力する」のかと言うと、

世の中の幸せにまつわる価値観の逆を

意識的に進もうとしているからだ。

 

意志の力がなければ出来ない。

 

地球と宇宙はこれ以上与えられないものを

あなたにすでに与えている。

 

命と心だ。

 

生きていることの素晴らしさ、

見たり聴いたり歌ったりできることの幸せを

毎日しっかりと「感じようとしたら」自然と分かる。

すでに与え尽くしてくれているということが。

もうこれ以上与えられるものは残っていないということが。

 

それに比べるとお金や恋人や健康や住居や仕事や面子などは

はるかに矮小なもので、

要求するのも恥ずかしいと自然と分かることと思う。

 

でも実際には、

「そういうものを積極的に宇宙にオーダーすべき」

「それを叶えてくれるのが宇宙」

「願いが叶うことが幸せ」

といういわゆる引き寄せ論が人の心を捉えていて、

ここを僕は冒頭に述べた「幼稚化」と見る。

 

小さな願いは天に任せ、いっそ忘れ、

宇宙の大きさに思いを馳せたら

生きている素晴らしさもやがて明らかに感じられるようになると思う。

 

 

僕の 『幸せを作る12の習慣』を知っている人のために

念のため説明しておくと、

僕が伝えたい「幸せ」の本命は

「地球帰属意識前回の記事の(4))」であり、

その基礎となる精神の健全性を保つための方法論として

『12の習慣』を位置付けている。

 

僕のここまでの言葉を読んで、もしかしたら

「自分の幸せなんて望むものではない」

と思われたかもしれないけれど、そうではない。

 

命と心をまっとうすることは、

この上もなく幸せなことだ、と改めて伝えたい。

 

でも

 

「自分の願いが叶うと幸せになる」

「自分の幸せを叶えることに価値がある」

 

そういう浅はかな幸福論は間違っている、という話。

 

実際、願いが叶ったのに不幸せな人はいくらでもいる。

 

前回の記事(5)にも書いたように

それよりももっと先に見詰め直すべきことは

地球と自分との母子関係であって、

母に愛と感謝を持ち、

また義務ではなく、自然な感情の発露として

「母を喜ばせたい」という気持ちを

人生の中心に据えることが大切だ。

 

母を喜ばせるということは

「この子を生んで良かった。育てて良かった」

と母が自然と思えるような、子としての生き方をすること。

 

つまり裏を返せば

「生んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう」

の気持ちをどれだけ持てるか、ということ。

 

でも実際どうだろうか。

 

多くの人は人生を作業や忍耐や気晴らしの連続と考え、

生きている幸せより、欠乏の不安に頭を取られ、

「自分が」幸せになることばかりを考えているのではないだろうか。

 

与えられたものの価値を正しく認識できず

母との繋がりも忘れてしまい、

そのような在り方では幸せになれるはずもないのに

「なぜ幸せになれないのか」と嘆いたり恨んだりする。

 

人はエゴ由来の幸せをどれだけ望んでも幸せにはなれず

地球という母との繋がりを大切に感じられるようになって初めて、

幸せに生きられるようになる。

 

「自分の幸せは自分で作る」

これは地球人の常識だが宇宙的には未熟な発想だ。

 

僕は異星人としてこの真理を伝えたい。

 

「星(=地球)との繋がりの自覚だけが真実の幸せを作る」

 

あなたも目先の幸せ不幸せから一旦目を離して、

「地球という母から生まれ、今日も生かされている」ことを、

心を集中して、イメージを頭の中に描き出してみてほしい。

 

日々色々嫌なことや苦しいことがあり、

地球などという大きくて遠いもののことなど考えられないし

考えたくもないと思うこともあるとは思う。

でも下り坂を為すに任せてずるずると落ちていくのではなく、

自分の意志の力で、愛と喜びに目を凝らしてみてほしい。

 

あなたが地球という母に心からの感謝を感じられるようになった時、

あなたは必ず本当の幸せを実感できるようになっている。